養豚

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鶴舞藩では、勧農政策として、明治初年に養豚や養蚕を奨励し、明治三年(一八七〇)七月には、養豚係のものを任命して飼育を試験的に行ない、翌四年六月二〇日には、養豚希望者を募集している。本町で、一番早く養豚を行なったのは、山根与次右衛門(現山根泰次氏祖父)で、ほぼ、この年代頃からではなかろうかと思われる。それは、明治七年一月二四日付、千葉県よりの通達文書(1)によって伺うことができる。
 
 山根村山根与次右衛門、桜谷村鹿間荒三郎、高師村土橋哲三郎
 右ノ者ヘ養豚取締人申付候段、協救社ヨリ届出候条為心得相達候事 千葉県

 
 この文書に見えている「協救社」というのは、「東京の角田米三郎という者が、養豚を主とし、牛羊をも飼育する為に設けたもので、明治二年七月には「協救社衍義草稿」という本を刊行、大いに養豚肉食のことを宣伝したので、一部の人達の間に、急に養豚熱が高まった。民部省でもこの社の活動を助成した。」と千葉県史に記されている。山根氏が、どんな事情で協救社と関係をもったか明かではないが、氏は極めて進歩的な考えをもっていたので、早くから養豚に関心をもったのであろう。当時豚の飼育に用いた「かめ」等も現在同家に残っているという。その後、明治一七年(一八八四)頃上野の横山次郎作氏が「養鶏、養豚、養蚕、畜牛」等の副業を試み、成績良好なるものは普及に努めたといわれ、(2)このような人達の努力で、家畜や家禽が次第に普及していったものと思われる。
 しかし、大正四年(一九一五)旧長柄村統計によると、豚は僅かに一五頭で、その後も殆んど増加せず、昭和二一年(一九四六)の調査でも六頭にすぎず、飼育の盛んになるのは、終戦後のことである。