畜牛

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明治四四年(一九一一)旧長柄村耕作用牛馬頭数調によると、馬一九九頭、牛なし、となっているが、牛は、乳用として飼育されていたのであろう。大正四年(一九一五)長柄村郷土誌(3)には、牛一五五頭(牝一四〇、牡一五頭)。搾乳場一、搾乳高、年一三石(約二三四〇リットル)、価格一升(一・八リットル)三〇銭とし三九〇円とあるので、僅かながら、この頃には、牛乳が販売されていたことがわかる。そして、昭和二一年には、牛三一五頭(内役用二一八、乳用九七)と増加が著しい。
 さて、牛の飼育が、旧長柄村、中でも上野と山之郷地区に集中しているのはどんな理由によるのであろうか。大和久忠敬さんは次のようにその理由をあげられている。
 
  第一に、長柄が広い原野をもち、牧草が豊富でその上、水も豊かであること。茂原水道の水源地にもなっている程である。
  第二は、明治の初め頃から、畜牛に力を入れ指導に当ってきた先人の力が大きかったこと。第三に、長柄が房総往還の中間に当っていることである。そのため、房州牛を江戸へ送る途中の休み場になった。井戸沢、金生など、草を与え、水を飲ませるに適した場所が極めて多い。そのため、早くから牛に関心をもつようになったのだという。
  第四に、牛の預託制度を利用したことである。
 
 この預託制度というのは、農家が、東京などの搾乳業者から、牝の仔牛を預り、大きくして子を産ませる。その親牛は、乳が出るので、搾乳業者が引取り、農家には育ててくれた代償を支払う。牛一頭を与える場合もある。このような制度を牛の預託制度又は牛小作などと言っていたが、千葉県史(明治編)には、房州の西崎村の農家が、明治三八年(一九〇五)に預ったのが最初であると記されている。だが、長柄地区でも、山之郷や上野では、同じ頃か、或はそれ以前から、この制度を利用して牛をふやしていた農家があったとのことである。
 山之郷の渡辺敏夫さんは、現在長柄町酪農組合長で、乳牛五〇頭を飼育し、祖父金蔵さんから三代七〇余年間牛の飼育を続け、畜産振興に力を注いできた一人であるが、長柄の畜牛について、次のように話している。
 
  「上野・山之郷には、明治一七、八年頃から牛の飼育が行なわれていたのではなかろうか。早くから飼育していたのは、岡本吉郎、横山善一、横山次郎作、柴崎民五郎さんなどで、これらの方々が指導奨励に努めていた。牛をふやす方法として、千葉方面の搾乳業者から仔牛を預り、三年間で親牛に育て、仔牛を産むまでにする。仔牛が生まれると、乳の出る親牛は業者に返し、仔牛はもらいうけた。飼育代として、そのほか、多少の報酬を得ることもあった。こうして、農家は、自分の持ち牛をふやすことができた。乳をしぼって販売するようになったのは、昭和一〇年(一九三五)頃からで、牛乳缶をリヤカーに積んで千葉や茂原方面に出荷したものである。しかし、本格的になったのは、終戦後である。」
 
 乳牛の増加に対し、農耕用としての役牛も馬に代り、一家に一頭位いたが、戦後は次第に減少の傾向を辿っていった。