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もっとも盛衰のはげしいのは馬であろう。馬は、農家の運搬、農耕、厩肥を得ることなど幅広く利用されていたが、そのほか、軍用としても大切なものだった。
 大津倉浅間宮下の旧村道沿いの路傍に、高さ一米ほどの一基の碑が建っている。表には「徴発馬匹記念碑」(4)とあり、裏面は三段に分かれ、上段は、明治二七・八年日清戦役馬匹者氏名として、馬を徴発された人七名の氏名が記され、中段には、明治三七・八年日露戦役馬匹者氏名として、二〇名の名が記されている。そして下段はこの碑を建てた有志者二九名の名と、最後に発起人として、篠田惣十郎・石井伴蔵の名を記している。建碑は、明治三九年(一九〇六)であるから、日露戦役に大勝した年に、軍馬の霊を弔って建てたものであろう。浅間宮の前は、相当広い土地があり、昔から馬場のあったところと伝えられているので、この地を選んで建てられたものと思われる。
 

馬匹徴発記念碑(大津倉区)

 このように馬は、重要なものであったので、各村の役場では、人の戸籍簿と同じように「馬匹名簿」を備えておかなければならなかった。明治三九年三月五日現在の「長柄村馬匹名簿」に登載されている馬の頭数は、表1の如く、五才から一五才までが一二五頭、一六才以上が三三頭で合計一七七頭、これを、駄馬向、輓馬向きに分け、一頭ずつ、上表の要項に従って、記載している。
 
表1 長柄村馬匹数(明39.3.5現在)
16歳以上牝馬31頭
16歳以上牡馬2 
5歳~15歳牝馬125 
5〃~15〃牡馬19 
合   計177 

 
  馬匹現在届(例)
一、性  女
一、年齢 一八歳
一、用後 輓馬
一、体尺 四尺六寸
一、毛色 黒色
 右現在候也       長柄村長柄山八〇七番地
 明治三八年十一月十日 馬匹所有者
              川井平蔵印
  長柄村長 畠山敬三殿

 
 勿論、各農家で飼育しているものは、これ以上の頭数に上るわけであるが、毎年検査を行ない、そのうちから軍用馬として適格と認められたものを載せたのである。ちなみに大正四年(一九一五)長柄村の馬頭数は二四〇頭であるが、「馬匹名簿」に記されているものは一六八頭であった。
 では当時の従軍した馬の動員はいかに行なわれたであろうか。先ず、郡役所から村長宛に、徴発馬匹の割当表が届けられる。村長は、馬匹名簿によって徴発馬を指定し、「馬匹徴発伝達書」を作成し、「使丁」を使って、敏速に馬匹所有者に伝達するのである。この方法は、人間の召集令状伝達と全く同じであるが、人間の令状は赤紙に印刷してあるのに対してこの「馬匹徴発伝達書」は白紙に印刷してあるのである。その形式は次頁のようなものであった。
 

 

 

 

 「使丁」というのは、兵員や馬匹の動員があった場合、夜間でも、台風の中でも、召集令状を伝達する必要があるので、役場で特別に依頼した令状伝達人のことで、長柄村では、明治四三年には六名を依頼してあった。(5)
 明治三九年五月二〇日、馬匹の徴発計画(6)によると、第一師団関係で、日吉村に輓馬三長柄村輓馬一、第一三師団関係で、長柄村乗馬四、駄馬一四の動員がきている。この年、長生郡全体では、二三四頭の多きに上っていた。日露戦による軍馬の補充のためであったのだろうか。
 その後、明治四〇年頃からは、陸軍が地方で演習を行なう際、必要な馬匹を借上げることになった。千葉県訓令第一八号で「第一師団借上馬匹取扱規則」(7)が出されている。これをみると、駄(輓)馬一頭、一日で一円二〇銭、馬糧官給、口附人が一人つくと、一円七〇銭以内を給するとある。しかし、借上げられた農家にとっては、迷惑なことであったと思われる。その後、大正から昭和にかけて、馬は益々重要性を増し、昭和一二年(一九三七)七月には、軍用適格馬(8)を飼育している者に賞金を出したり、馬の品評会を催したりしている。
 しかし、その後馬の飼育は次第に減少し、役牛が多くなり、昭和二一年には、牛三一五頭に対し馬五二頭(長柄村統計)となり、戦後は、次第に影をひそめて行き、現在では皆無ともいうべき状態で、学童なども農村でありながら、牧場に行かねば馬を見ることが出来ないということになってしまった。