孟宗竹がいつの時代、本町の地域に植生されたかは詳らかでない。古老の言によれば孟宗竹の歴史は、そう古いものではなく、せいぜい一五〇年前後だろうと言っている。即ち江戸幕府が参勤交代の制をとってから藩主の承認により藩主間で物産の流通が或程度認められたと思われる。これにより孟宗竹は九州方面から、東海道、関東へと移り房総半島にも竹の植生がなされたということはまちがいない。
現在、本町の道脇寺、山之郷、六地蔵、追分、皿木、鴇谷、桜谷などの集落には整った竹林を見ることができる。その他の集落にも小規模の竹林が点在し、町全体の竹林面積は一一七ヘクタールに上ると思われる。孟宗筍の生産は目下の処本町内では、道脇寺集落が他の集落を凌駕しているので特にこの集落の筍生産の状況をのべてみることにする。
道脇寺集落は、江戸期においては、山根新開村と称した。この集落に孟宗竹を最初に植生した先人は、道脇善一氏の先祖又は大和久隆夫氏の先祖のようであるが、その後幾星霜を経て今日の姿にした当地の筍生産の先覚者はつぎの人々である。( )内のものが功労者)
大和久治郎右衛門(文化 五一歳歿)~勘之丞(元治元年 五二歳歿)~忠太郎(明治一 五一歳歿)~忠作(昭和一五 八五歳歿)~衛(昭和四四 七四歳歿)
安藤道賢(宝暦五、九、二九 歿)~道得(亨和二、九 歿)~量詮(文政三、一〇、二八 歿)~元吉(明治七、六、二九 歿)~勝五郎(大正一二、二、二四 七一歳歿)~久太郎(昭和一七、一、八 六九才歿)~伊太郎(昭和四七、三、九 七四歳歿)
道脇平蔵(明治年間 歿)~善三(大正四、二、二〇 歿)~浅次郎(昭和三、 六〇歳歿)~善夫(昭和四五年 七七歳歿)
若菜万二郎~与吉~重二郎~治作~(昭和三〇年 七四歳歿)~治夫
中でも大和久衛氏は、昭和初期東京府目黒地先に出向き、つぶさに筍栽培の研修を積み、部落の人々に筍栽培の方法を指導した。これらの人々の努力により、この地域の孟宗竹は繁茂するようになった。それでは孟宗竹を何の目的で植生したかというと、たぶん筍は食用にし親竹は、農業用資材として利用するほか、ざる、かごなどの加工用資材に供するため植生されたであろう。今日では工芸品などに利用されているが、その昔、観賞用として庭木に植生されたものはごくわずかであったろう。
かくして先覚者の植生した竹林は、その面積も次第に増大し必然的に販売という方法をとる状態に発展したのである。
販売の最初の方法は近隣の一般消費者と八百屋ぐらいが販売の相手であったようである。昭和五~六年頃になると、この地域の人々は、千葉の青果市場に出荷するようになった。
千葉の市場への輸送は自転車で行なったようである。道脇善夫、木島明春、大和久太一、安藤栄作、若菜新蔵、大和久隆夫等の人々は一日千葉まで二往復もしたという。道脇善夫は荷車を利用し市場だしを行なったというから、その苦労のあとがしのばれる。
太平洋戦争が終り、復員兵もおちついて家業の振興のために汗を流す喜びにひたるようになり、昭和二七~八年頃になると、オート三輪貨物自動車が出はじまった。この頃になると、安藤庄一、道脇善一の二人は共同して、自動車を利用して、東京神田市場に筍の出荷をはじめたので近所の人々から非常に喜ばれた。
東京市場では「千葉筍」と称し評判がよかった。それは、本町の土壌が火山灰土で一部地域を除き白色土層が南北に帯状に広がり、降雨量一五〇ミリ、平均気温一四度で「エゴ味」のない良質の筍生産に適していることによるのである。この頃の出荷総量は、年平均一〇トンくらいであった。
昭和三五年代になると、荷づくりは、ビニール袋を利用するようになった。五乃至一〇キロ詰として、規格審査は出荷者全員による共選方式をとり、出荷物の商品価値を高めるため努力したようである。
いまの時代では、施設園芸がさかんに行なわれるようになったので、季節に関係なく新鮮な年間の野菜を食べられるようになったが、戦前戦後をつうじ四月~五月頃は野菜が欠乏する時期であった。そこで、この時期にでる筍は生鮮野菜として、市場側から又都市の一般消費者からもてはやされたのであった。しかし前述のように、四季をつうじ季節に関係なく生鮮野菜が出廻っている昨今においては、筍栽培も自然に土の中から出たとき掘りとる方法では駄目である。栽培方法を近代化し、労働力の省力化をはかるなど積極的な努力をしなければならないであろう。
現在、筍生産組合は、宮沢清之進組合長を中心に良質の筍生産に励んでいる。
長柄の竹林(宮沢清之進所有)
筍ほり(道脇寺の竹林)