莚(むしろ)と叺(かます)

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藁工品の中で、副業として最も重要なものは、むしろとかますであった。むしろがいつ頃から用いられていたかについて『日本史辞典』をみると次のように記されている。莚は、筵と同義でい(藺)菅、竹などを編んだ長方形の敷物のことを言い、平安、鎌倉の頃は、多く板の間の上に敷き、畳ができてからは、地上の敷物に利用されてきた。叺は莚を袋状にしたものであって、包装や貯蔵用に使用され、古くから用いられていたことがわかる。天保・安政年間には関東に数度の大地震や大洪水があったが、この時、むしろを張って雨露を凌いだり、叺に砂土を入れて堤防を築き水を防いだりしたのでその便利なことがわかり需要が増加してきたと言う。その後明治維新になってからは、群馬や埼玉に養蚕業が盛となり、蚕座に用いられ、東京方面では、紡績会社や肥料会社が設立され、石炭の輸入も日を追って盛になると、その包装用や貯蔵用に便利であると言うので急速に需要が増してきた。そして明治二三年(一八九〇)年頃には長南付近から生産されるものは、庁南莚叺として評判が高くなった。明治二七、八年前後には軍用品として収用され、県下の養蚕業の蚕具としてまた二八年北海道肥料商から多量の注文があり、人造肥料会社からは三〇年に三〇万枚の特約注文がくるような状態で、空前の大盛況となった。
 そこで、明治三〇年一二月、叺むしろ業者が一致して、長南町に庁南合資会社(資本金一万二千円)を設立した。その後叺むしろの売買は順調で、日露戦争頃には、長生郡の生産高も三百八万三千枚(二二万九千円)にも上り、多額の収益をあげたので、明治三九年一二月事業を拡張し、株式会社に改組し、名称を関東叺莚株式会社に改め、茂原、土睦、大原、牛久等に出張所を設けるまでに至った。この会社は、明治四二年解散されたが、叺莚の生産は衰えることはなかった。
 大正元年(一九一二)本郡叺莚の生産高をみると次の如くなっている。(1)
 叺 二九六万九〇五〇枚―二三万七五二四円(県の八四・六%)
 莚 二三三万八三四三枚―八万八百三九円(県の三三%)

 右の中長南町一〇万一三円(二百二万枚)で一位、ついで東、西、鶴枝、土睦、八積、茂原、日吉、水上の順となり、何れも生産額二千円以上である。
 大正から昭和の初めにかけて、叺むしろは、農家の重要な副業となって、生産も順調であったが、粗製品が多く、規格もよく守れないものがあったとみえ、大正七年(一九一八)一月と大正九年二月に相次いで町村長を通じ規格の標準を示す前掲のような通達を出している。
 
  叺莚粗製濫造矯正ニ関スル件(役場文書)
 本郡特産タル叺莚ノ生産ハ逐年増加シ来リ殊ニ近時時局ニ際シ需要激増ノ為其価格又昂騰シ農家経済ニ好影響ヲ及ボセルハ洵ニ喜ブベキ現象ナリトス然ルニ近来粗製濫造品ノ産出多ク従ツテ市場ノ声価ヲ失墜スル如キモノ有ルヤニ聞ク、宜シク各位ハ一般生産人ニ充分ノ戒飭ヲ加フルト共ニ左記標準ヲ周知セシメ斯ル弊ヲ矯正シ以テ斯業ノ円満ナル発達ヲ遂ケシムル様一段ノ努力アランコトヲ望ム  記
 
表1 旧水上村むしろの生産高(水上村農会資料)
大正8年昭和3年10か年平均一戸平均一戸収入
(1梱1.20円)
12,303梱13,020梱12,698梱28梱33円60銭

 
 さて、旧水上村では、当時どの位の生産があったかというと、大正八年から昭和三年(一九二八)まで表1の通りで殆んど減少していない。そして昭和三年頃一戸平均三三円六〇銭位をあげていたようである。その生産は、お盆前と、正月から三月頃の農閑期が利用され、正月の買物、お盆の買物などこの収入でまかなわれることが多かった。
 
表2 旧水上村米麦大豆生産高(水上村農会資料)
年 度作付面積収穫高戸 数一戸
平均耕地
10か年
平均収量
一戸
平均収量
大正8298.6町6,756石3937.6反6,433石14石
昭和3303.9 6,562 4596.6 
大正874.9 967 3931.9 1,098 2.39石
昭和370.2 1,552 4591.5 

大正850.0 398 3931.3 37.3 8斗
昭和351.5 459 4591.1 

 
 ところで、叺莚が農家経済に占める位置は、どの位のものであっただろうか、昭和四年、旧水上村農会から出された農業指針(2)によると、次のように述べられている。
 
 (一) 生活資源トスル収入
  表2ノ如ク一〇年前ヨリ、水平ヲ保チ、本村ノ資源トスル農産物ニ敢テ増収ヲ見ルコトガデキヌ。試ミニソノ概算ヲアゲテミヨウ。
  1 水陸米一戸当三五俵作付反別六・六反デアルカラ二〇俵ヲ年貢トシ一五俵ノ残米一俵一二円換算一八〇円、コノ内肥料金一俵一円五〇銭トシ三〇円ヲ控除スルト純益百五〇円
  2 大小麦一戸約六俵価格デミルト一俵四円トシテ二四円作付反別一・五反デアルカラ肥料金二円当リデ三円ヲ控除シ純益二一円
  3 大豆ハ麦作ノ年貢ニ供ス
  4 莚ハ二八梱(表1)一梱当一円二〇銭デ、収入三三円六〇銭
   右合計二百四円六〇銭
   コノ中カラ一戸米麦一五俵ノ飯米ヲ控除スルト五四円六〇銭デコレガ日用費課税等ニ充テルコトニナル。

 (二) 支出トシテ一戸平均三四円一〇銭トナル
  従ツテ五四円六〇銭カラ差引クト二〇円五〇銭トナリ、消費節約ガ大切デアル。

 
種類丈 尺幅  員量  目
十五目四尺五寸二尺一寸五分三百三十匁以上
十六目四尺八寸二尺二寸八分三百七十匁 〃 
十七目五尺二寸二尺四寸五分四百二十匁 〃 
十八目五尺三寸二尺六寸二分四百八十匁 〃 
十九目五尺五寸二尺七寸九分五百五十匁 〃 

 
 右の如くのべられているが、特に叺莚でいえば、総収入の約一六%で、飯米を控除した額の六一%に当るわけで農家がこの生産に力を入れていたことがうなづけるであろう。
 莚織機は、足踏式の機械が発明され、従来二人がかりで一日一〇枚程度しか織れなかったものが、一人で二〇枚近くも織れるようになった。昭和十八年大東亜戦に入って更に需要を増したが、統制品に指定された。
 昭和二二年(一九四七)統制も解除され、肥料工場の操業が再開されたので、再び需要も増加した。大正の初期には検査がなかったが、その後粗製品が多かったり、叺むしろの重要性をましたので、国の機関である食糧事務所が検査を行なうようになった。昭和二三年長南出張所の検査数量は三〇五、六四〇枚であったが、無検査のものも相当数あったものと思われる。
 昭和二七年(一九五二)二月の県統計によると、日吉・水上には、殆んどの農家に製莚機と製縄機が購入されていた。そして叺むしろの生産も郡内の上位に上っている。然し郡内で九九万枚の叺むしろの中、一〇万枚以上を産出しているのは、西村、東村、土睦村の三村で、これに次ぐのが豊栄村、水上村、日吉村等である。
 
表3 昭和27年 製莚機等台数(県統計年鑑)
製莚機製縄機農家戸数
長柄村266237640
日吉村367316453
水上村389342423

 
 
表4 叺むしろ生産高(昭27.2月)(千葉県統計年鑑)
叺むしろな わむしろ
長柄村16,8331,8985,08211,565
日吉村62,1386,9566,01525,288
水上村73,3214,6834,44914,106
西 村188,8243,8195,92216,281
東 村153,1732,92219,40528,324
土睦村156,12011,0087,68934,553
豊栄村82,7953,2312,64313,839
長生郡990,378118,573100,866293,056

 
 その後、昭和三〇年頃から、肥料容器としての叺莚は次第に他の容器に代わり、一方農家の労力は、割のよい京葉工業地帯の工場労働に吸収され、長い間見なれていた叺むしろの生産は急速に減少してゆくが、それでも表5をみると、農家収入の三%を占めている。その後、三五年度の町勢要覧には、叺莚の生産はあげられていない。そして製莚機も廃品となり、ほこりにまみれ捨てられてしまったものが多く、現在は、その姿を全く見ることはできない。時の流れというべきだろうか。
 
表5 農家経済状況(昭和三〇年町勢要覧)
区 分収入歩合%
70
麦 類8
大 豆4
なたね3
甘 藷1
落花生3
たばこ3
牛 乳2
叺 莚3
その他3

 
    註
 (1) 『長生郡郷土誌』(長生郡教育会編)。
 (2) 水上村農会文書。篠田惣次家蔵。