この会は、明治三七年(一九〇四)一〇月二五日に結成されたもので、その目的は「農業一般ノ肥料ヲ買求ムルコト」であるが、規約前文(川崎主計家文書)には次のように記されている。
「今般日露戦争時局ニ際シ是ヲ記念トシテ茲ニ、谷内一同団結シテ農事奨励上施肥料ノ目的ヲ主トシ、一層奮発シ勤勉貯蓄ヲ以テ農業発達セシメ、永遠盛大ニ倍々有益ヲ計ラントス」とあり、榎本・和合谷の高橋喜太郎外八名で会を組織している。そして積立てるものは金ではなく物品で、壱株につき玄米弐斗と縄弐束と二把(但し一把は百六十五尺=約五五米)で、なわは毎月二十五日に積立て、これを売却して銀行に貯金する。そして必要があれば借りて、返済は年一割の利子をつけることにしていた。また、明治三九年(一九〇六)一二月、同じ榎本区和合谷で高橋喜太郎外六名のもので、日本勧業銀行発売「貯蓄債券」を共同購入する組織をつくっている。これは、勿論勤倹貯蓄の精神と肥料金を得るためのものであるが、同時に、この債券は富籤的な発想で発行されていたので、その富くじ的な当りの期待も含まれていたと思われる。「共同貯蓄債券契約書」(川崎主計家文書)をみると、共同購入した債券は、「を号、第一九三〇二号~第一九三〇八号」までの七枚で、一枚金五円、合計三五円となっている。この債券には、抽籤によって賞金がついて、一等五百円、二等百円、三等十円、四等五円、五等二円である。契約した趣旨をみると、債券は二十か年間預り人に保管し、年三分の利息と、「富みくじ」に当せんするような時の利益は、平等に配当し、元金は永遠共有金とし、肥料資金の目的で地方銀行に永く積立てておこうというものである。