(1) 学務委員 (1) Academic affairs committees

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 地方教育委員会の全国一斉設置が決り、その投票前夜即ち、昭和二七年(一九五二)一〇月四日、朝日新聞の夕刊に、次のような見出しの記事が載っていた。
 「六二年前にあった教育委員会―構想も現在と同じ、明治二二年大津市(当時は町)で」とあった。
 「教育委員会といえば、「占領教育の落し子」のように思われているが、実は、六二年前に、現在の教育委員会と瓜二つの制度が日本に存在していたことが、最近文部省で明かにされ関係者を驚かせている。すなわち明治二二年(一八八九)滋賀県大津町で、公選による「教育委員会設置条令」がつくられ、学校建設など「町内教育の普及」を図った記録が残されていることである。」と。
 これは誠に驚くべきことであるが、この制度も長くは続かず、明治二三年の小学校令で、全国一斉に「学務委員制度」がおかれることになったため、この教育委員会も二年ほどで解消したという。
 ところで、明治の始め一般にはどんな制度がつくられたかというと、明治一二年(一八七九)公選学務委員制度とも呼ぶべき、制度がつくられた。即ち、明治五年の学制に代って、明治一二年九月二九日、太政官布告四〇号として発布された「教育令」の中に、学務委員の設置を義務づける条文がある。
  第十条、町村内ノ学校事務ヲ幹理セシメンガタメニ学務委員ヲオクベシ、但人員ノ多寡給料ノ有無ハ其町村ノ適宜タルベシ。
  第十一条、学務委員ハ其町村ノ選挙タルベシ。

 自由民権運動が漸く高まりつつあった時期とはいえ、まだ近代的な意味での地方自治制はなく、地方では戸惑いもあったが、文部省は学務委員の選挙権、被選挙権を「人民ノ公権」としていて、公選学務委員制の確立を図ったのであろう。しかし、当時としては、国民の無関心から、公選の実をあげられなかったのである。
 そして、一年三カ月後の「教育令改正」(明治一三年一二月二八日)によって、学務委員は、府県知事の選任制に改められた。即ち「第十一条、学務委員ハ町村人民其定数ノ二倍若クハ三倍ヲ薦挙シ府県知事県令其中ニ就テ之ヲ選任ス 但薦挙ノ規則ハ府県知事県令之ヲ起草シテ文部卿ノ認可ヲ経ベシ」
とその選任方法を定めている。また町村に通知した文書(1)によると、学務委員の任務が九条にわたって示されているが、その主なものをあげると、
 第一条 町村内教育事務ヲ幹理スルコト
 第二条 公立学校設立保護ノ方法ヲ設クルコト
 第三条 公立学校ノ規則教則ヲ編成スルコト
 第四条 公立学校ヘ毎日又は隔日ニ相詰メ校務ヲ整理スルコト

 これをみると、毎日又は隔日に学校へ出るというのであるから、学校長も、毎日監督されているようなもので、お互に大へんであろう。ところが、一四年一二月になると、更に三五条にわたり、その職務権限が定められた。水上村では、明治一三年六月四日、平野万吉、田代喜代蔵が、学務委員に任命され、翌一四年二月、平野弥惣治が学務委員たることを認可されている。(水上小学校沿革誌)
 

学務委員辞令(柴崎丞家蔵)

 その後、明治一八年(一八八五)には、学務委員が廃止されたが、同一九年五月一三日、「教育事務取扱上ノ便宜ヲ図ルタメ各町村に学事世話係」をおくことになった。(2)これは、郡役所の認可をうけて任命されたものである。水上村では、平野弥惣治、行方久三郎、鶴岡庄左衛門の三名が任命されている。
 明治二三年(一八九〇)の小学校令改正で再び学務委員が任命されることになった。その職務は「国の教育事務」について、市町村長を補助するもので、諮問機関的性格は全く与えられていなかった。つまり、町村長に伝えられる国の命令を忠実に学校に伝達する機関にすぎず、下からの意見をすい上げて、町村長に進言するような機関ではなかったわけである。委員には、学校の教員も加え、土地の名望家が選ばれた。明治二四年、水上村学務委員は四名で、太田弥三郎(高山)大塚勇蔵(高山)鶴岡岡次郎(高山)柴崎市次郎(刑部)であった。その後学務委員制度については、殆んど変更されることはなく、明治三三年の小学校令施行規則で、「諮問ニ応ジテ意見ヲ陳述スル」ということが付加されたが、基本的にはあくまでも市町村長の補助機関として、終戦までつづいたのである。なお日吉・長柄の人名は不詳である。