明治六年、小学校の経費保管や出納等校務を処理するため、地方で名望のある人格者を各区内から推せんし、県庁に具申して決めた。
同九年二月一〇日に示された「心得」をみると、現在の事務職員のように学校経費の出納事務をするだけでなく、校舎備品の管理など学校管理の仕事も行う重要な役目であった。『水上校沿革誌』によると「明治六年一二月谷藤久五郎会計並雑事担任となる。同八年四月谷藤久五郎第一二小区学校事務係を命ぜらる。同九年事務係谷藤久五郎辞任す。同年一一月、高山村富永篤実、鴇谷村鶴岡金十郎第一二小区事務係を命ぜらる。」とある。
その後、一二年六月、公立小学校事務係と名称が変り、郡役所から任命されるようになったが、翌年廃止され、その事務は、学務委員に引つがれることになった。