郡役所と郡視学

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明治一一年(一八七八)七月「郡区町村編成法」が施行され、今までの大小区役所は廃止となり、郡役所がおかれた。これで、府県は、市部である区と郡に分かれ、郡の中に町村が含まれることになった。そして、郡内町村の教育事務はすべて郡長の取扱うところとなった。そのため、郡長の権限は大したものだった。その後、二三年(一八九〇)郡役所に一名の郡視学がおかれ「郡長の指揮命令ヲ受ケテ郡内ノ教育事務ヲ監督スル」ことになった。
 郡視学は、府県知事より任命され、その権限は、管理と指導の両面を担当し、教員の人事を自由に出来たので、現場では「鬼よりこわい」存在であった。だから、視学の学校巡視となると、何週間も前から準備万端怠りなく、平身低頭して迎えるので、現在、出張所長が民主的になったといっても、まだその名残を留めているのである。三〇年には、「郡視学職務規程」(5)が定められ、その権限は一層強化された。
 しかし、大正一五年(一九二六)郡役所が廃止され、教育事務もすべて県庁へ移管されたので、郡視学制をやめ、県視学が各郡の学校を監督することになった。その後終戦までは大きな変化はなく、青年教育官がおかれて、青年訓練教育面を担当することになったこと位である。ただ、戦時体制が強化されるにつれて、学校教育の面でも、視学を通じて、一層きびしい統制が行なわれたのである。