教育委員会法の制定

376 ~ 378 / 756ページ
終戦後は、文部省を中心とする中央集権的な教育行政を改め、地方住民の考えを反映した「人民による人民のための教育行政」を行うよう、昭和二三年(一九四八)七月、教育委員会法が制定された。この法律の主な骨子を示すと、次の六つの点にまとめられる。
 1 地方公共団体の行政機関で、合議制の独立機関である。
 2 都道府県(東京都の特別区を含む)及び市町村毎に設けられるが、二・三村共同した組合立の教育委員会を設けてもよい。
 3 委員の数は、都道府県七人(中一名議会選出)、市町村五名(一名は議員)とし、議員以外はすべて公選とする。任期は四年で、半数を二年毎に交替する。
 4 都道府県知事や市町村長に属していた教育・学術・文化に関する事務を管理執行する。また、小・中学校教員の人事は、市町村教育委員会の所管とする。
 5 教育委員会の中に教育長をおく。委員会が、一定の有資格者の中から任命する。また、事務処理のため必要な部課をおく。
 6 予算は、教育委員会が見積り、地方公共団体の長の査定をうけるが、意見が合わない時は、長が査定したものに、教育委員会の見積をそえて議会に提出する。

 さて、この法律に基づいて、一〇月五日、都道府県や五大都市の教育委員の選挙が行なわれ、一一月一日から発足したが、市町村は少しおくれ、二七年一〇月五日に選挙を行い一一月一日から発足をみた。当時長柄町は、まだ合併していなかったので、各村ごとに委員会がつくられた。委員の氏名は次の通りであった。
 
長   柄   村日   吉   村水   上   村

宮沢中也・黒須彦明・岡本郁郎 山本弘・大和久隆夫高橋竜・松野誓郎・加藤源良夫 平川公夫・木村明正柴崎一郎・池座久二・木村六郎左衛門・鹿間僖雄・鶴岡計二
教育長 川崎隆三→山岸守な   し竹内胤正→鶴岡仁一

 
 その後、昭和三一年、教育行政と一般行政との調和を図り、教育行政が安定して行なわれるようにするという理由で、公選制の教育委員会法は改正され、任命制の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」ができ、一〇月一日から実施されることになった。改正された主な点をあげると、
 1 委員の選任方法が改められ、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命する。
 2 教育長の任命は、都道府県は、文部大臣、市町村は、都道府県教育委員会の承認を得ること。
 3 委員会の権限中、予算・条例原案の送付権は廃止、教育財産の取得、処分権等は、地方公共団体の長の権限にする。
 4 小中学校教員の任命は、市町村教育委員会の内申をまって、県が行う。
 5 文部大臣は都道府県や市町村に都道府県教育委員会は、市町村に、教育事務の処理について、必要な指導、助言、援助を行うことができる。

 となっている。この法案が国会に提出されると、教育民主化を妨げ、中央集権化への復帰を企図するものだとし、全国の有識者から猛然と反対の火の手が上った。即ち、「教育を守る署名」(国会請願)が七〇〇万人をこえる国会史上最高のものとなり、日教組、小・中学校長会、民間教育団体、主婦連、子どもを守る会、母親連絡会、学生、学者、文化人のみならず、教育委員(全教委・全地教委)まで含めた大運動となった。中でも、矢内原忠雄東大総長、南原繁前東大総長、木下一雄東京学芸大学長、大内兵衛法大総長、大浜信泉早大総長、安部能成学習院大学長、務台理作元文理大学長、内田俊一東工大学長、蝋山政道お茶の水女子大学長、上原専禄元一橋大学長の一〇氏は、「文教政策の傾向に関する声明(昭和三一・三・一九)」を発表し、法案は「いずれも部分的ではなく、民主的教育制度を根本的に変えるもの」であり、「言論・思想の原則をおびやかす」ものとして、「政府と国会の反省を促し、世論の一層の喚起を期待」した。関西一三学長も、四日後これを支持する声明を出した。多数の大学教授、教育者も「学問思想の自由を守り、教育の統制に反対する」声明を発表した。追いつめられた鳩山内閣は、「他の重要法案は犠牲にしても、新教育法案は成立させる」と、六月一日から二日にかけて、五〇〇人の警官を一四時間にわたって院内に導入し、強引に通過させたものである。(『教育委員の準公選』労働旬報社刊)