我国は、昭和二〇年(一九四五)八月一五日、ポ〓ダム宣言受諾によって、戦争は終結したが、荒廃と困乱と貧苦の中で、六・三制という教育制度の一大変革をなしとげねばならなかった。これは、明治五年(一八七二)学制が発布されて、各村々にただちに四・四制の学校を設立するようにと達しがあった時以上に容易でない仕事であった。敗戦によって、食べるものも着るものも乏しい時代、都会では、学校も家もすっかり焼かれた時、一つの町村に六か年の小学校と三か年の中学校の二つを同時に設けねばならぬということは、全く神業に等しい難事業である。しかし、連合軍の至上命令とあっては、是が非でもやりとげねばならない。村民は、一致協力、復興の精神を発揮し、昭和二二年(一九四七)五月一〇日、取あえず、旧国民学校の校舎を使い、二つの学校を発足させた。
以来、苦難の歩みを続けながら、現在の如き発展をみたのである。次にその概要を記そう。