1 占領下の教育時代(昭和二〇年―同二七年)

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 この時期の教育改革は、およそ、二つの段階を経て実現された。
 第一段階(昭和二〇―同二一)この時期は、教育面における終戦処理と旧体制の精算が積極的に行なわれる一方、新しい教育理念の普及啓蒙が行なわれたことである。その一、二を示す。
1 墨ぬり教科書の使用がある。昭和二〇年八月二一日、文部省は戦時教育を廃し、平時教育へ転換させるための緊急事項を指示し、「新日本建設ノ教育方針」を発表。同二〇日、「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」の通牒を出し、従来の教科書は、根本から改訂しなければならないが、取あえず「肇国ノ精神ヲ鼓吹シタ箇所ヤ、愛国尊皇ノ献身ヲ説イタ文字ヤ、戦争ヲ論ジタ所」を削除して使用することにした。削除箇所は、同二一年一月二五日に明示にされたので、この箇所を小学校児童に墨でぬりつぶさせて使ったのである。このような処置は世界歴史にも、その前例をみない事柄であるという。五年生のよみ方の教科書などは、全巻の三分の一が墨ぬり、巻四では、一三一頁あったものが五〇頁になってしまったという。この教科書を使ったのは、昭和八年から同一四年三月生まれの人達であった。
 また、二〇年一〇月には、進駐軍から「日本教育制度に対する管理政策」が指令され、引続いて一二月「修身歴史、地理の授業停止」等の指令が出され、敗戦の厳しさをひしひしと感じさせられた。
 
2 軍国主義に関係ある施設の破棄。各学校では、軍国主義に関係ある施設、図書をやきすてた。
 その第一は、御真影と勅語騰本類である。長生郡の学校は、すべて水上小学校に集め処理された。第二は、学校にあった神棚、御真影奉安殿、二宮尊徳像(これは後に認められた)忠魂碑、銃、剣、木刀、長刀などで、今考えると誠におかしい程神経を使って処理した。日清、日露の戦利品なども同様であった。第三は、軍国的な図書、文書、軸物等である。焼却したり教師の家に分散したり埋めたりした。貴重なものが数多く失なわれたのは、誠に残念なことである。
 続いて、同二一年四月には「第一次米国教育使節団の報告書が」提示され、日本の教師と学校に新しい教育の方向を示されたのである。
第二段階(昭和二一―同二七)
  昭和二一年八月、内閣に「教育制度委員会」が設けられ、米国使節団の勧告に基づいて、教育制度のもとになる法律の作成にとりかかり、同二二年(一九四七)四月、教育基本法、学校教育法など、六三制のもとになる法律が公布された。これに引続き、教育内容を示す「学習指導要領」や「児童生徒指導要領」など必要な法規が定められた。そこで、前にもふれたように、各町村では、昭和二二年五月、小学校舎の一部を中学校舎にあて、体制の整備を図ったが中学校の独立校舎ができたのは、水上中学校が、二四年一月、日吉中学校が三月のことである。
 必要な職員も、戦争のために犠牲となったもの多く、時間講師や女教師を急ぎ採用し、急場をしのいだ状態だったので、教育内容を徹底させることは困難な状態であった。教室からは、教壇や教卓が取払われ、子ども中心の学習指導が行なわれることになった。