戦前すでに日吉国民学校では、児童の栄養補給を考え、みそ汁給食を実施している。記録によると
昭和一六年(一九四一)一一月一三日、各家庭より味噌を持参させ、味噌汁給食を行った。その後、一八年からは、学校で味噌をつくり、家庭からは野菜を持参させ、高等科生の手伝いで、みそ汁給食が行なわれた。この給食は、一九年も続けられたが、戦局が不利となり、しばしば空襲警報が発令されるようになり、継続することができなくなった。当時の教頭風戸徂功は、その苦心を次のように語ってくれた。「味噌の材料は、いもこうじを使った。ある日、みその大豆を煮ていると、突然空襲警報が発令されたので、火を消し大急ぎで児童と避難した。警報はなかなか解除されず、豆のことが心配でならない。しかし、その日は豆に火を入れることができず、翌日みたら、鍋の中で豆はもう使いものにならなくなっていた。当時、さらに大豆を得ることは到底できないことだった」。
終戦後は、やはり日吉小学校がいち早くミルク給食の実施を決定した。昭和二二年一月二〇日のことである。五月一九日、豊栄小学校の給食施設や状況を見学、七月六日、窯を設営。二四年一一月調理場が完成した。二五年二月五日から、桜谷部落の父兄が輪番に手伝いに来ることになり、以後部落PTAの奉仕で続けられることになった。
水上小学校や長柄中学校が始めたのは、ずっとおくれ、昭和三八年一〇月一日からであった。