通俗教育とよんでいた時代は、主として、一般の利用する施設をりっぱに造ることに力を入れてきた。その後、もっと大切なことは、青少年や一般の人達が勉強する機会を作ってやることだと考え、大正八年文部省の中に社会教育のことを扱う専門の課を設け、各県にも、社会教育主事をおくよう通達を出し、(大正九年五月)、同一〇月二八日、長生郡町村長会で、町村にも社会教育のことを扱う人をおくよう次のように指示している。
「社会教育ニ関スル件」(町村会指示事項)
国家社会ノ健全ナル発達ハ学校教育ノ徹底ト社会教育ノ振興ニ俟タザルベカラズ。本郡ノ情況ヲ察スルニ、学校教育ハ概シテ健全ナル発展ヲ示シツツアリ。社会教育ニ於テモ青年会処女会ハ各町村ニ普及シ、戸主会婦人会等モ亦各地ニ設立ノ気運ニアリト雖モ尚未ダ不振ノ感ナクンバアラズ。本県ニ於テハ社会教育ノ現状ニ鑑ミ社会教育ノ振興ヲ図ランガタメ、社会教育主事ヲオキ、適切有効ナル施設ヲ講ゼントスル計画アルヲ以テ、此際各位ノ相当ノ経費ヲ町村費中ニ計上シ、学校教員又ハ有識名望ノ士ヲ選ヒ、便宜之ガ事務ヲ嘱託スル等相依リ相扶ケテ之ガ振興ニ努メラレンコトヲ望ム。
長柄尋常高等小学校長林太一が、県社会教育主事に選ばれたのは、大正一〇年三月のことである。ついで昭和四年(一九二九)、文部省に社会教育局が設けられ、社会教育に関する一切の仕事を受持つことになった。即ち、成人教育、婦人団体や青少年団体の育成から、働く青少年育成の機関である、実業補習学校や青年訓練所青年学校の所管という幅広い内容のものである。そして、昭和五年には、市町村にも社会教育委員会を設けるよう通知を出している。こうして、各町村には、婦人会や青年団が組織されて、活発な活動を展開することになってゆく。