町村における婦人組織は、明治三〇年代(一八九七)男子の戸主会と並んで主婦会などの存在がみられ、日露戦争当時、地域の婦人会が大いに活動したと言われる。名称は愛国婦人会と呼んだ。この愛国婦人会は、明治三三年の北清事変に、東本願寺の慰問使に加って戦線将兵の実情をみた奥村五百子が、「半えりひとかけを節約して軍人とその遺族を救おうという」軍事後援事業を目的とし、近衛篤麿らの後援を得て、同三四年二月に結成されたもので、会長には公爵岩倉久子夫人が選ばれた。本県では、同三五年二月阿部知事夫人を会長に千葉県支部を結成、日露戦争を境に急速に発展し、活動も活発となり、社会事業方面にも活動を広めていったが、満州事変とともに本来の目的に帰った。
昭和五年六月、文部省は「家庭教育の振興」を目的とした大日本連合婦人会を組織した。これは当時各地域に存在した地区婦人会を上から統合したものである。
昭和六年、陸軍では、軍の自由になる婦人団体を作ろうと考えていた。たまたま愛国婦人会の様子をみると、「上流婦人の社交団体と化し、一般大衆の近づき難い姿」になっていたので、「貧富の差によらず、一般家庭の主婦は勿論のこと、女工、女給も安心して加入できる団体」をと考え、大阪市港町の婦人会をモデルに、軍部が後援して結成されたのが大日本国防婦人会である。
支那事変には、この三大婦人団体がきそって銃後後援活動をしたので、末端の婦人大衆は三重の動員に悩み、体一つにタスキ三本の実態の中から、「婦人団体は一つに」と言う声が全国にみなぎることになった。この婦人大衆の世論が実現したのは大東亜戦争の勃発によるもので、昭和一七年二月一日三団体の統合によって大日本婦人会が誕生し「高度国防体制に即応した銃後活動」が強制的に行われたのである。(『全地婦連二十年史』による)
わが長柄町でも、水上・日吉・長柄地区それぞれに、献身的な銃後活動を展開したが、中心となって活躍された方の中には、故人となられた者も多く、歳月の移りの早さを感ずるのである。