郷土の青年団が、いつどのようにして組織されたか、その記録は明かでないが、大正四年から一〇年頃までの町村長会の指示事項の中に必ず青年団に関することが取上げられ、その組織化と活動を活発にすることを促している。その案件をあげてみると、
年月日 | 案 件 | 内 容 |
大四・ 六・ 一 | 教育ノ改善発達ニ関スル件 | 青年団の指導統一について |
〃 一〇・二七 | 青年団体ニ関スル件 | 千葉県訓令第三一号に基き指導すること |
五・ 一・一五 | 青年会ニ関スル件 | 青年団組織を期日までに必ずつくることを指示 |
〃 六・一三 | 青年団ノ指導ニ関スル件 | 青年団指導の項目を示す |
八・ 六・二六 | 青年団及処女会ニ関スル件 | 青年団長は団員の中から選出するようになった |
このような指導に基づいて郷土の村々にも青年団が組織されたことであろう。それはその社会奉仕活動のあらわれとして今各村の辻に残る道しるべによって伺うことができる。その殆んどは、大正九年、一〇年頃、村青年団によって建てられたものばかりである。大正九年一一月には、青年団に次のような令旨を賜り、青年団の活動は一層推進された。「国運ノ進展ノ基礎ハ青年ノ修養ニマツコト多シ、諸子能ク内外ノ情勢ニ顧ミ恒ニ其ノ本分ヲ尽クシ奮励協力以テ所期ノ目的ヲ達成セルニ昂メンコトヲ望ム」と。これに基づき、団員信条として五大教綱というものが示された。
一 皇室を敬ひ祖先を尊ぶべし これ忠道の大本、孝道の大義也
二、隣保相扶け地方共同の実益を収す可し、これ自治体の理想実現なり
三、権利を尊重し義務を厳守すべし、これ立憲国民の要道なり
四、礼節を重んずべし、これ人に接する要諦なり
五、質素勤勉以て産を治むべしこれ家を興し国を富ます所以なり
二、隣保相扶け地方共同の実益を収す可し、これ自治体の理想実現なり
三、権利を尊重し義務を厳守すべし、これ立憲国民の要道なり
四、礼節を重んずべし、これ人に接する要諦なり
五、質素勤勉以て産を治むべしこれ家を興し国を富ます所以なり
昭和元年には、水上村青年団は、約百三十名位で、元気一ぱいの活動をした。研修の機関紙として、団報の第一号を発行して、団の活動や情報をのせたのである。更に団の志気を高めるため、団員より公募して団歌を制定した。加藤喜之氏の作詞が当選したが、次のようなものであった。
以後青年団の活動は、銃後の守りとして、注目すべき成果をあげたのである。戦後の青年団活動と対比してみるとき当時の、青年の力の大きさをしみじみと感ずるのである。参考のため、昭和元年、水上村青年団の予算を記す。
一、収入 百五九円三拾六銭也(内会費四三円五〇銭、村補助三〇円)……(当時米十二俵分に当る)
二、支出 百五九円三拾六銭也
二、支出 百五九円三拾六銭也
1会議費五円 2総会費三十円 3団報発行費二五円 4体育費二四円 5講習生派遣費六円 6修養費一〇円 7郡負担金一五円 8文庫費五円 9奨励費五円 10その他八円
以上は、水上村青年団の活動の一部を記したものであるが、その後月岡、鶴岡九皐、篠田春吉など団長として活動したといわれる。長柄村では昭和一二年頃から山根泰次、蒔田郁郎などが中心となって青年団活動をもり上げたという。当時長柄には、用水池をプールにも活用し体育競技の鍛錬に励み、こんな山の中の青年団がどうして水泳競技にも優秀な成績をおさめられるかと郡内の注目されるところだったという。当時の青少年団は、四つに分かれていた。大日本青年団。大日本連合女子青年団。大日本少年団連盟。帝国少年団協会。であるが、第二次大戦開戦を目前にこれを一本に統合、活動を強化してゆくことになった。名称は、大日本青年団で、昭和一六年一月一六日のことである。青年団は、あらゆる活動を高度国防国家建設に即応し銃後の守りと、いざ戦場への訓練に終始した。昭和二〇年には本土決戦に備えての措置として、二月一八日、閣議で「決戦措置要綱」が定められ、大日本青少年団の解散がすすめられ、すべての国民が国民義勇隊となって本土防衛に当ることになった。これが六月末のことであった。そして、八月一五日に終戦を迎えたのである。