例えば、生活改善と称し、生活の合理化を図り、農村の封建制を打ちやぶるための活動を行ったことである。子どもの七つ祝いは、お宮などで合同で祝をし、余ったお金は学資金に積立てることを取りきめたなどはその一つで、合同祝はまず昭和三一年に水上地区(村上孝子会長)で行われ、その翌年日吉地区、続いて長柄地区で行われた。最初は男性の側の反対の声が強く、当時新設せられたばかりの有線電話で会長宅に抗議の声を寄せるものもあったが、間もなく全村の理解を得られ、協力を得られるようになった。また昭和三四年には日吉地区では公明選挙推進のため、町議に六つの項目にわたり質問状をおくり、その答を会報に発表すると同時に、婦人会主催の「町議候補者に政見を聞く会」を開いた。政見を発表した候補は八人の中で二人にすぎなかったが、その反響はきわめて大きく、全国でも始めてだという批評を受けた。そのほか冠婚葬祭などもできる限り簡素にしようとした。部落で子安講などの集りには、嫁と姑の問題や子どもの教育の問題などつとめて学習ができるように工夫して、自分達の力で新しい社会をきづくための教養を身につけようと努力していった。
ひもとき合同祝(昭和31年)水上地区