婦人会

460 ~ 461 / 756ページ
終戦後、軍政部の命令で大日本婦人会は解散させられ、しばらく空白の時期が続いた。婦人会の結成について最初は軍政部の指導で、各別の婦人会は認められても、連合組織をもつことを禁止せられていた。県下では、昭和二二年の千葉婦人会が最初であった。長生郡でもっとも早く婦人会を結成したのは東浪見婦人会でついで茂原であった。長柄日吉水上の各婦人会の結成は昭和二五年であった。従前からの各部落ごとに行われていた子安講が母胎となっていた為、スムースに結成の運びに至り「明るい社会、豊かな家庭を建設し、婦人の地位の向上をめざす」ことを目ざしてそれぞれに特色ある活動を行って来た。
 例えば、生活改善と称し、生活の合理化を図り、農村の封建制を打ちやぶるための活動を行ったことである。子どもの七つ祝いは、お宮などで合同で祝をし、余ったお金は学資金に積立てることを取りきめたなどはその一つで、合同祝はまず昭和三一年に水上地区(村上孝子会長)で行われ、その翌年日吉地区、続いて長柄地区で行われた。最初は男性の側の反対の声が強く、当時新設せられたばかりの有線電話で会長宅に抗議の声を寄せるものもあったが、間もなく全村の理解を得られ、協力を得られるようになった。また昭和三四年には日吉地区では公明選挙推進のため、町議に六つの項目にわたり質問状をおくり、その答を会報に発表すると同時に、婦人会主催の「町議候補者に政見を聞く会」を開いた。政見を発表した候補は八人の中で二人にすぎなかったが、その反響はきわめて大きく、全国でも始めてだという批評を受けた。そのほか冠婚葬祭などもできる限り簡素にしようとした。部落で子安講などの集りには、嫁と姑の問題や子どもの教育の問題などつとめて学習ができるように工夫して、自分達の力で新しい社会をきづくための教養を身につけようと努力していった。
 

ひもとき合同祝(昭和31年)水上地区