青年団

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戦後の青年団は、軍事色の濃い青年団から、民主的な団体に成長したのであるが、その間には、さまざまな変動があった。先ず終戦後昭和二十七・八年頃までの有様を考えてみると荒れ果てた日本の中で、国民が求めたものは生きるための食糧であった。国民は農村へ農村へと集り、それと共に農村には、働く青年男女が満ちあふれた。彼等の求めたものは、学習の場というよりは、労働に疲れた体を慰やす娯楽であった。然し現代のような施設や設備はなかったので、自分達の手による手踊りや素人芝居が全盛を極めた。然し昭和二十六年(一九五一)頃になると世の中も幾分安定し、日本の産業も次第に回復し、映画等の娯楽施設が増えはじめ、青年は都会へ都会へと流れ始めた。この頃から青年団の活動は、娯楽中心から社会に対する生産活動的なものに移り、農村の生活改善、農休日の設定、冠婚葬祭の簡素化等、農村の封建的な慣行の改善に立ち向っていった。いわばお祭り青年団から生活改善の青年団へと移っていったわけである。
 昭和三十二年、日吉水上長柄青年団は大同団結し、長柄町青年団が結成された。初代団長は、柴崎元俊氏であった。当時は、岩戸景気だとか神武以来の繁栄だとか騒がれ、農村青年で農村へ残る者は、数少い長男だけになってしまった。従って青年団活動の中心は、組織の強化と社会的地位の向上のための学習におかれざるを得なかった。この傾向は、二代加納安之、三代鈴木久信で、この頃、青年団とは別個のレクリエーション中心の「日曜会」が組織されたが、リーダー不足からまもなく解散されてしまった。四代若菜安弘、五代山田順三、六代高橋啓造とうけつがれて、長柄町青年団も次第に安定した活動を展開できるようになった。団員の数は、百数十名で依然として都市へ流れてゆく青年が多かった。
 現在県下でも有名になった長柄町一周駅伝大会は、小野達夫氏らの強力なリーダーシップによって基礎がきづかれ、山田団長時代に第五回を迎えたが、五年連続出場選手の表彰をみている。
 第七代団長は山口哲雄民であるが、この時代は、曲り角に来た青年団と言われ、青年団の学習活動を地につけるよりも、人集めと、リーダー養成に腐心したのである。そして団の運営も、少数精鋭でゆくか、網羅主義でゆくか論議をよんだのである。尚当時、平野教育長、三橋教育課長の力添えで、野球クラブが発足し、その後次第に盛んとなり、現在の長柄町野球連盟の基礎が出来たことは特筆すべき事柄であろう。
 第八代大塚義衛、九代関民之輔、十代鶴岡利康、十一代井川俊幸氏の時代は、その活動をスポーツの振興と青年学級の充実に力をそそいできた。現在の長柄町体育指導員や町青少年相談員の大部分は、この時代のリーダーであった人達であることを考えると、青年団の育成が社会の発展に大きな力となってゆくことを感ずるのである。
 十二代金坂毅一、十三代神崎好功、十四代山田和夫、十五代山本岩男、十六代伊藤治夫の時代は、過疎化が頂点になり、農業後継者が社会問題となり、農業に従事する女子青年は全く無くなるといった状態であった。従って町青年団の運営は極めて困難となってきた。
 十七・八代は鶴岡嘉文氏である。青年団の在り方を原点にかえって見直し、新しい時代に即した青年団の運営と活動が期待されているのである。何れにせよ未来の長柄町の発展の為に、青年団の育成は現在の急務であろう。その後の団長は、十九代保川正治、二十代好地輝芳 二一代大和久雅一である。(昭和五五年度)