秋楽会(菊愛好会)

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この秋楽会の誕生は大正十二年(一九二三)、当時、菊花会の多いなかでも関東随一と言われた川崎市の秋声会(川崎大師の会)に、秋楽会の育ての親である鶴岡三郎氏の実兄、市原無二三氏が活躍しておられた。その関係から同氏を通じ、苗の導入や育成の指導をうけ、飯尾不動様を会場とした菊愛好家同志の会が発足したのである。秋楽会の名称も、この秋声会によりどころを求めた点が多分にあると思われる。発足当時の組織をみると、初代会長木村信太郎(飯尾・不動尊檀家総代)会員には、鶴岡三郎、飯尾久治、道脇源治郎、黒須正己、柴崎盛伝、宮沢重五郎、中村源一、高吉清、日吉村では、大川、高仲、廻谷、横山氏、二宮本郷村では、野村菊治、篠崎八次郎、山崎侑治、大野等氏等二十名足らずで、それぞれりっぱな人達の集りであったが、今日健在で活躍されている方は数人にすぎなくなっている。
 秋楽会の規約は、秋声会のそれを参考としてつくられた。規約中には、菊花審査規定までつくられ、一流菊花会なみの規準が出来上っている。この会は、その後会員の増加とともに健全な発展をつづけ、毎年の菊花会も隆盛になっていった。後日茂原市の蘭愛好者に出張指導を行い、茂原市菊友会誕生の原動力ともなったと言うことで、郡市の菊花会の先駆者の役割を果してきたわけである。その後、愛好者同志の競技会や一般鑑賞会は勿論のこと、不動様との行事を一体化し、戦歿慰霊祭に協力参加し、また終戦後食糧増産に拍車をかけている時、これに呼応して、農業研究課程として菊作りの方針をうち出し好評を得た。当時長生地方事務所長、新聞記者等を招待盛大な菊花大会を催している。
 

菊花展(昭55)

 昭和二五年頃より、茂原グリーンセンター経営者、鈴木乙三郎氏の要請で、グリーンセンター菊花展示会に出品するとともに、その指導を行った。然し連綿と続いていた会も、戦争中は、三年有余休止するの止むなきに至り、そのため品種絶滅の結果となり、終戦後また川崎市、松岡定吉氏より数十種類の原種苗を導入し復活したのである。昭和三〇年、町村合併後、会場を飯尾不動堂より長柄町役場新庁舎に移し、現在は中央公民館を会場として行っている。この菊花大会の開催も、昭和五五年現在第四八回を数え、会長は初代木村新太郎氏から二代鶴岡三郎氏、現在は三代岡本美夫氏とうけつがれている。毎年の文化祭行事の一環として、菊花展示を行うとともに、小中学校の児童、生徒の情操教育として、菊作りの苗の配布と培養の指導も合わせて行っている。現在(昭和五五年)の秋楽会は会員数五〇名を数え、役員構成は次の如くである。
 会長 岡本美夫  副会長 青木正守・林誠明・鵜沢粂蔵  理事長 高吉清  会計主任 大和久美年男  理事 能瀬与吉・大和久茂雄・大野弘司・行方徳富  顧問 鶴岡三郎  審査委員会 委員長 鶴岡三郎  委員 高吉清・林誠明・鵜沢粂蔵・能瀬与吉・大和久美年男
 事業としては次のごとく行われている。
 町文化祭への参加(菊花大会)町関連行事への協力、学校菊作りへの協力、指導
  菊花大会展示用花壇 四棟、盆養作り平均一二〇鉢、福助作り五〇鉢、懸崖作り一〇鉢、切花五〇花、盆栽作り一〇鉢
 事業費 二二万円、会費 八万円、町補助金 一〇万円、繰越金 一万円、雑収入 三万円