①東浜往還。茂原―(鼠坂)―六地蔵―浜野
②中往還 長南―(針ケ谷坂)―長柄山―追分
③大阪道 長南―鴇谷―桜谷―(大阪)―六地蔵
④篠綱坂道 笠森―大津倉―(篠綱坂)―長柄山
⑤鳥居坂道 刑部―(鳥居坂)―磯ケ谷
⑥田代坂道 金谷―刑部―(田代坂)―牛久
⑦誉田道 国府里―味庄―(舟木坂)―金剛地
②中往還 長南―(針ケ谷坂)―長柄山―追分
③大阪道 長南―鴇谷―桜谷―(大阪)―六地蔵
④篠綱坂道 笠森―大津倉―(篠綱坂)―長柄山
⑤鳥居坂道 刑部―(鳥居坂)―磯ケ谷
⑥田代坂道 金谷―刑部―(田代坂)―牛久
⑦誉田道 国府里―味庄―(舟木坂)―金剛地
これらの道路は、何れも険しい山谷を通りぬけるため、道幅も狭く、曲りくねっていて、人馬の通行には、相当な難所が多かったのである。明治政府は、諸般の刷新を行っていったが、地方の道路の改善に手が及ぶようになるまでには相当な時日を要したのである。
明治五年(一八七二)一〇月二八日、政府は「道路掃除之儀」(1)という大政官布告を出し、「各町村で道路の掃除分担をきめ、その維持管理に努むべきこと」を地方長官に通達し、同年十一月二八日、木更津県権令紫原和より、管下の戸長宛に通知されている。これをみると、各村の道路には、掃除分担区域に標杭を立て、三月に一回は必ず掃除を行い、雨風の際は特に念入に行う等、六ケ条にわけて掃除方法を指示している。その他道路を削ったり、田の泥を街道に掻揚げたり塵芥を捨てたりして、通行の妨げにならぬよう細かに注意している。自分達の住む村の道路は、自分達で維持管理するという基本方針を示したもので、この考えは、我国の道路行政の上に一貫して採られてきたものである。しかし、道路の保守はできても改善は、多大の経費を要するもので、国や県の補助がなくしては到底不可能である。
明治六年(一八七三)、千葉県がおかれ、郵便制度の確立に伴い、少くとも県庁から各大区取扱所へ毎日往復郵便を差立てることを必要としたので、それらの路線には力を入れ、明治九年はは、諸道を国道(幅七間=一三、五米)県道(幅五間=九米)里道に区別し、主要なものは県道に編入されたが、郷土の道路は少しもその恩恵に浴しなかった。