町村聯合会による五坂の改修

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現在内藤正雄家に「町村聯会議事録」二冊と「道路修築協議費余贏(えい)金使途方法議案」という文書が残っている。因みに、内藤家は、三郎平が明治一四年刑部村外十五ケ村連合会議員として活躍したのであるが、それによると、明治一五年(一八八二)二月長柄、上埴生両郡の町村聯合会では「両郡県道相当道路ニアル最モ峻難ノ坂路(鼠坂、佐坪村市野々村地内棒坂、長南宿茗荷沢村地内矢貫坂、綱田坂、針ケ谷坂)ノ五坂ヲ改修シ……人馬通行ノ困難ヲ免レ物貨運輸ノ便ヲ図ルコトハ……本郡ノ最モ急務トスル処」と考え、第一期に、鼠坂、棒坂、矢貫坂の三坂の改修を行い、翌一六年二月残る針ケ谷坂、綱田坂と六地蔵村二坂の修築を完了したのである。
 この五坂は、東浜往還、中往還と呼ばれた重要街道の中にあり、江戸への往還には、どうしてもこの坂道を通らねばならない。中でも、中往還は、峻しい山谷が多く、それらを避けて迂回路にしたため、その距離は、大へんなものだった。しかし、近世初期に本多大内記忠朝が新道を開いてから、距離は三分の一になったものの、幾つもの山坂を通ることになったわけである。『埴生郡聞見漫録』(房総叢書所収)によれば
 
  いにしへ大田喜より江戸へ往来は、下大田喜より駒返坂を経て、妙楽寺大上(オホガミ)を過き、それより埴生郡に入り、森、芝原、古のつぎばなり、給田、葛田、坂本を経て長南に至りしを、大坂冬御陣の時、本多大内記忠朝は、大田喜の城より出てて駒返坂を過き給ふ。時に鼬出でて路よこぎりしかば、それより馬をかへし、更に新道を開き、小土呂、市ノ野、佐坪、茗荷沢を経て長南に至る、行程三分二の労を省けり、道つくりの武(民カ)、本多侯の鉄棒を見て、いかてつかひ給はんといひしを聞給ひて、つかいて見せ給ひし地を棒坂といふ。佐坪と市ノ野との間にあり。
 
と記されている。
 これらの坂道は、何れも、土木機械など極めて貧弱な明治の初めに、大改修が行なわれたのである。いま、小土呂に残る安川柳渓撰文の「修道碑文」(3)をみると先人の努力に改めて感謝の念がこみ上げてくるのである。中でも、小土呂坂の開鑿は、最も困難を極め、「歳を閲する一紀、役夫五万人を費せり」(4)といわれている。次に五坂の改修経費をみると、
 
第一期(三坂分)三一一四円五七銭四厘
第二期(二坂及六地蔵坂分)二五七六円六八銭四厘
合計五六九一円二五銭八厘

 
という莫大なものであるが、その三分の二以上は地方税で、地元負担は三分ノ一弱の八一三円一五銭四厘である。これによって郡内の交道は一段と便利になり、県道編入への大きな足掛りともなったのであるが、次に郷土に関係ある坂路の工事(5)についてその内訳を記してみよう。
 (ア) 鼠坂 明治一五年二月着工。
  ○総工費 八三五円四八銭二厘
   (内) 地方税 六五五円一八銭六厘 地元負担 一六三円七九銭六厘 協議費 一六円五〇銭
   その内訳  ○七六七円七〇銭七厘 (延長九百二間一尺(約一六四〇米)の間切下げの改修費で人足三、二六六人八分四厘分、一人二三銭五厘)
  ○五一円二七銭五厘 (根留〓(さく)百九間(約一九八米)で杉丸太九一本、葉付竹八八〇本そだ二〇束使用。杉一本六銭四厘、そだ一束五銭四厘、竹一本六厘)
  ○一六円五〇銭 (畑一畝歩、山林藪地畑一反一五歩、土捨場一反歩の代金)
 この鼠坂は、現在のものではなく、長柄農協前から、山を切崩し、長柄小学校裏を通って六地蔵へぬける道で、現在もその一部は使用され、昔の面影をとどめている。
 (イ) 針ケ谷坂 明治一六年二月着工
  ○総工費 一七三六円四〇銭五厘
   その内訳 ○一四八〇円八二銭八厘 (延長五二一間四尺一寸(約九三八米)の坂道を切下げ、トンネルと排水溝をつくる。人足五二三一、一五人、一人二五銭。石工四三二、六人、一人四〇銭の賃金である)
  ○二五円五七銭七厘 (根留〓七一間(約一二七・八米)、高さ三尺とする。杉丸太二一五本、代一本七銭五厘竹一四二〇本、代一本五厘。そだ四七束、代一束四銭宛)
  ○二三〇円 (土地買上代で田一反五畝(一反百円の割)畑一反歩(代五〇円)山林三反歩(一反一〇円の割)
 これは現在の道路より東側の泉谷を通り、トンネルをぬけて権現森の東中腹を通って長柄山に至るもので、トンネルは現存し、子供達が、「こうもり」をとりにいったりしていた。一部は農道として利用している。
 (ウ) 六地蔵二坂 明治一六年着工
   総工費 三二一円四〇銭九厘
   その内訳 ○三一〇円二五銭五厘 (延長二一六間 三尺の道路の改修費で人足、一二四一人弐厘、一人二五銭宛の代金) ○一一円一五銭四厘
  (これは宅地壱畝歩を反一一一円五四銭の割で買上げた代金)

 

新開発坂道の図