県道編入

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前述のように峻しい坂道の工事も終り、交通の便が倍加した為であろうか、本町の主幹道路は、次々に県道に編入された。即ち、明治一八年(一八八五)茂原―長柄―千葉線、翌一九年長柄大多喜線である。
 しかし県の道路工事費は十分とはいえず、大きな改修があると、関係町村民から寄付を仰いだり、自分達の手で維持管理するよう仕向けられた。明治二三年(一八九〇)長柄山―市野々間の県道改修には、大津倉村でも、一八円四五銭当時(米一石五円位)の寄付金を出し、石田英吉知事より、感謝状を送られている。恐らく沿道の各村々でも、同じように寄付を出したことであろう。助郷の制度は改善されたが、やはりある程度の負担は止むを得なかったのである。
 このような状態であったから、町村道は、全く旧態依然の悪路であったが、明治三〇年(一八九七)房総東線の開通によって、砂利の運搬が便利になったため、先づ県道に投入され、少しずつ道らしくなっていったのである。
 

鼠坂旧千葉街道(道脇寺附近)

 

旧針ケ谷坂(権現森下への道)

 

針ケ谷坂旧道(権現森附近)