町村道の改修

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明治の後半から大正、昭和にかけて、道路は、単に人馬の往来のためだけでなく、物資の輸送、産業の振興の上に次第に重要性を増し、他方には車輛の発達と共に、道幅の広狭や、路面の堅固さが問題にされるようになった。しかし町村道の保全については、町村長に委ねられ、村民に道路愛護の精神を高めるための通達を出す程度に過ぎなかった。次にその一、二をあげてみよう。
 大正四年(一九一五)六月、長生郡長より各町村長へ通達文(7)がある。
 
 「道路ノ改善ニ関シテハ、曩ニ指示セルヲ以テ、之ガ実施ニ努力セラレツツアルヲ信ズルモ、今季耕作ニ際シ、道路ヲ掘鑿シ又ハ用水路ノ浚渫土、水田塵芥、泥土、肥料等ノ路傍ニ堆積セルモノ尠シトセズ、右ハ啻ニ直接交通上ニ支障アルノミナラズ道路破壊ノ起因トナルベキニツキ、適当ノ措置ヲトリ、不都合ナキヲ期セラレンコトヲ望ム」
 
 これは田植期を控えての注意である。どこの農村でも行なわれていたことであろう。
 大正六年一月二〇日の町村長会議における「道路改善ニ関スル指示事項」(8)によると。
 
 「町村管理ノ道路修繕ニ関シテハ、従来屢々指示セル所ニシテ幸各位ノ尽力ニ依リ改善ノ実ヲ挙ゲツツアリト雖、未ダ以テ全キヲ得ザルハ遺憾トスルトコロナリ。惟フニ道路ノ良否ハ直ニ殖産興業開発ニ影響スル処極メテ大ナリ。各位ハ町村ノ財力ニ鑑ミ、在郷軍人会青年会、其他ト連絡ヲ図リ、之ガ改善ニ努メラレンコトヲ望ム」
 
 この通達の影響であろうか。当時道路の保全には、青年団や在郷軍人会の力が極めて大きかったことがうかがえる。それは、現在主な道路の辻の片すみに立てられている御影石の道しるべである。中には、道路工事で埋ったり、横倒しになって顧みられないものもあるが、それらは、大正九年(一九二〇)、一〇年頃地域青年団の力によって建てられたもので、ぜひ大切に保存したいものである。
 

道しるべ(長柄村青年団建立)