県道の整備

488 ~ 492 / 756ページ
本町を通る県道は、全部で五路線(別表1)であるが、編入の年月がまちまちであり、整備の状況も異っている。しかし昭和四九年(一九七四)になって全線の舗装が完成、峻険な鼠坂や針ケ谷坂もすっかり旧態を改めるまでになった。次に主な線の変遷を記してみよう。
 
表3 町内郡道舗装状況 (単位m)
年 度総延長舗装延長
昭和41・27,37310,137
〃 46〃26,11716,797
〃 49〃26,11726,117

 
 1 千葉―長柄―茂原線
 明治一六年(一八八三)鼠坂の改修が行なわれたためか、一八年に県道に編入されたが六二〇二米の道路は、その後改善の手が加えられなかった。この路線は、長柄農協前から山道を通り、長柄小前を通り、道脇寺から六地蔵へ通ずるものであった。坂下には「巡査山口久司君殉難碑」(10)が建てられている。碑によれば、明治二十年三月二五日、長南宿の商家に四人の強盗が押入り千葉方面に逃走した。旧鼠坂の茶屋橋本屋(現在長柄小学校近く)によって休んでいたところを命によって山口巡査が捕えようとして格闘となった。巡査は私服で身に寸鉄も帯びず、賊は刃物をもっていたため剌されて殉職したその功績をたたえたものである。

 賊も極めて淋しい坂道なので、ここまでくれば大丈夫と思って休んだことであろう。当時の難所であったことがうかがわれる。その後明治二八年頃南側に現在の道を開いたが、大正の始め、時の県会によって「一時廃止の厄に会った」という。恐らく山坂険しき道で、保全にも困難であることによるのではなかろうか。
 然し、現在は、大改修が行なわれ、すばらしい道路となっことは誠に喜ばしいことである。
 

改修後の鼠坂県道

 2 長柄―長南―大多喜線
 大野善八家文書によると「立鳥村ヲ通行スル県道、二等、幅四間(約七、二米)ニ相成タルトキハ、明治一九年(一八八六)十月。翌年五月迄ニ落成シ候」とあり、県道編入は明治一九年のことであった。尚、同文書に「県道開通ノ際、針ケ谷坂ノ工事ニテ、堀之内、半沢与吉岩ノ下ニ敷カレテ(圧)死シ、明治二一年二月同人ノ為、職工其他有志ヲ募リ、切通県道際ニ石碑ヲ建立ス」とあるので付近を調べたところ、道端の草むらの中に半分壊されて残っていた。それをみると「長沢初五郎の墓」とあり、半沢与吉と同一人であり、後者は旧名である。撰文は、岡本監輔(励業学舎主)によるもので、およそ次のように書かれている。「初五郎は、半沢和七の最後の子で、長沢家をついだ。明治二一年一二月九日、工事中屋根のような大岩が頭上におち、四体はこなごなになった。年は二二歳であった。」と。裏書をみると、付近の有識者一七人の名前が刻まれ、工事の犠牲者を懇に弔った人情の厚さがうかがえる。針ケ谷坂は、明治以来四回も改修しそのたびに道すじを変更している。

 

長沢初五郎碑(岡本留輔)

 旧道は川辺を通り泉谷から現在の道に出て、立鳥鴇谷へぬけていたが、明治一六年(一八八三)泉谷の先にトンネルをほり、権現森の南に出るものに改め、同一九年現在の道になり、昭和四九年道幅を広げ、舗装完成し、すばらしい道路となったのである。
 
 3 長富―味庄―誉田線
 この線の県道編入は昭和三年であるが、その後の状況を、昭和九年(一九三四)四月一四日の県道、誉田長富線改修後援会の発会式における木島義夫会長の祝辞(11)から拾ってみよう。

 
 「誉田味庄線ハ地元民ノ熱望ト県当局ノ御尽力ニ依リ、昭和三年県道ニ編入セラレマシタ。爾来年ト共ニ改修ノ実ヲ挙ゲ、今秋ヲ期シテホボ完成ノ域ニ達シヨウトシテイマス。殊ニ今春施行セラレタ長柄村舟木地先ノ改修ハ同路線中ノ難工事デアリマシタ。一昨年(昭和七年)通常県会ニ於テ更ニ長柄村味庄カラ日吉村長富マデ延長セラレ、今春ニ至リ内務省ノ認可スル所トナリマシタ。地元民ノ喜ビハタトエヨウモナイ程デス……。木島義夫」
 
 その後この路線は、難工事であったので、次のような段階で工事を進行している。
 鼠坂―舟木坂間  昭和九年完成
 舟木坂―山之郷郡界  昭和一〇年三月完成
 国府里―長富間  昭和一一年三月着工―同一二年三月完成

 この外、茂原―徳増―刑部―五井線があるが、県道編入は昭和一二年頃のことで、長い間泥んこ道であったが、現在では舗装も完了し、道幅も広げ、昔の面影を一変している。