江戸時代の交通を考えてみると、人は、歩くか、馬の背に乗るか、駕籠に乗るか、舟でゆくかである。駕籠は普通一人を乗せて二人で担いで歩く乗物であったから、かつぐ側からいえば、これは歩く道具である。馬は、百姓町人には許されない場合があったから、結局大部分の人は歩いていた。荷物の運搬も、人が背に負うか、天秤棒でかつぐか、馬か舟で運ぶしか方法はない。それ故、道も三尺幅から一間半もあれば足りたのである。要するに、交通機関は未発達で、制度の上からも、人々の自由な交通を阻害していたのが、明治以前の交通といえよう。
明治政府は、交通の面でも封建的なものを廃し、自由で便利なものにする方針をたてた。まず、明治二年(一八六九)には、諸街道におかれた関所を廃し、川には橋梁をかけることをすすめ、一里を三六町に統一して主な町村間の里程を明かにしている。また、五年九月一日には諸街道におかれた伝馬所を廃止し、代って民間事業として陸運会社が設立され、沿道住民を苦しめていた助郷はなくなったのである。郷土の駅で、陸運会社が開業されたのは六地蔵・長柄山・刑部の三駅であったが、営業内容を知る資料なく、明治八年には廃止されている。
交通機関に目を向けると、人力による車から馬による乗物が盛んとなり、やがて蒸気や電力による動力機関が発達してそれにかわるようになってゆく。即ち慶応二年(一八六九)一般人に荷車の使用を許し、明治二年東京横浜間に乗合馬車が走り出し、同三年には人力車が現われ、同四年には、馬に乗ることも自由になった。このようにして、道路の改善と共に、いろいろな乗物が創られ利用されるようになってゆく。大正五年(一九一三)の『長生郡郷土誌』には、
「汽車の便なかりし以前は、多く牛馬を以て運輸の便をなし、本郡及夷隅郡の貨物は、概ね長柄村長柄山を指し市原郡八幡或は北総浜野に集りそれより海路東京に至るを例とせり云々」と往時長柄山が人馬の往来頻繁を極めていたことを述べているが、更に『長柄村郷土誌』(1)(大正四年編集)の諸車の項をみると、「馬車牛車等なく、荷馬車二二輛、荷車三〇輛、自転車二三輛、人力車二輛を有す。これを往時に比せんか、寔に今昔の感に堪えざるものあり。由来わが長柄村は、房総中央街道の要衡に当れるを以て、九十九里湾房州沖の海産物は殆んど馬背によりて輸送に此地を通過したるが故に、沿道の六地蔵、長柄山の如きは、明治の初年までは共に駅と称して駅伝を設けられ本郡中高師駅に次ぎて繁栄を極め、一時長柄山には、人力車六〇輛以上、鼠坂、道脇寺等の立場を合して殆んど百輛を等するに至りしが、房総鉄道開通(明治三〇年)以来、昼夜行人の絶ゆることなかりし此の沿道の宿駅も、今は甚だ寂焉たるの感なき能わず。」と、その変遷のはげしさを記している。こうして一時さびれた街道も、自動車という交通機関の開発によって、今や本県交通網の中心として、その重要性を増してきた。
次に、本町に於ける乗物の変遷を車種別に辿ってみよう。