1 人力車 1 Rickshaws

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 人力車は明治三年(一八七〇)東京の和泉要助たちによって考案されたと言われているが、彼が東京府庁に申請した仕法書(2)によると、「西洋腰掛台に小車取付ひき歩行候に付、常体の車とは違い小振りにて、取廻し宜敷、往来差障りも相成らず、一人牽にて価安価に当り候」となっている。これは、西洋馬車からヒントを得て、馬の代りに人が引く乗物である。ところでここにある和泉要助たちというのは誰であろうか。斉藤俊彦著『人力車』によれば、人力車の考案は、和泉のほか、秋葉大助、高山幸助の三人であると言う。そして、その後、車体や車輛に改良を加え、乗心地のよいものにしたのも、秋葉大助の力が大きいという。(3)
 ところが、最近千葉日報に「人力車の生みの親は多古町出身」という見出しで、多古町町史編さん室の調査が発表され(4)話題を呼んだ。
 それによると、高山幸助は、多古町坂の出身で車大工。明治二年(一八六九年)他の二人と共に人力車の製造、使用の許可申請を出し、翌三年政府の許可がおりている。また、秋葉大助は、多古町南中に生まれ、明治二年銀座四丁目に秋葉商店を開き、人力車の製造を開始し、二年後には、大阪に支店を開いたという。
 以上のことを考えると、人力車の発明は、この三人と言ってもよいであろう。この車は文明開化の世に合ったものか、忽ち普及し、明治四年には東京都だけで四万台近くにも上り、同一六年には、全国で一六万六六五九輛になったという。(5)まことに、人力車は、街道筋の乗物の花形となったようである。
 明治一三年(一八七九)七月、刑部村の内藤三郎平が、熱海温泉旅行をした時の諸費簿(6)という記録の一部をみると、当時の東海道筋の乗物の様子がうかがえ参考になる。
 これをみると、登戸から先は、殆んど人力車を利用している。街道筋の乗物として、大いに利用されていたことがわかる。しかし、車賃をみると、宿賃とくらべて相当高額である。一般庶民の日常の足というわけにはゆかない。珍しいのは、汽車と汽船、汽車賃五〇銭を払って、新橋から神奈川まで汽車に乗ったという人は、内藤氏の外には、数少かったであろう。道中見聞記でも残しているともっと参考になるのだが、それは見当らない。二か所の橋渡りには、通行料を払っているのも面白い。
 
明治一三年七月十一日出立
 熱海温泉行諸費簿。内藤。平野
   記
 
七月十一日弐拾三銭登戸武蔵屋 払
 同四拾銭同所より船橋迄、車夫渡ス
 同弐銭鷺沼きしのや 茶代
 同拾弐銭行徳汽船 舟賃
 同三銭待合舟中 入用
同日  泊五拾弐銭東京和泉屋 宿払
七月十二日五拾銭新橋より神奈川へ 蒸気車
 同三拾六銭神奈川より藤沢迄車賃
 同四銭下柏寄村 休ミ
 同壱銭藤沢人力車立場一人
 同弐拾銭同所堀川昼食代 但茶代入
 同九拾五銭藤沢より小田原車代
 同六銭五厘二ケ所橋代。

 
(以下欠)
 
 それにしても、郷土の長柄山あたりには、人力車がなかったわけではなかろうが、登戸までは徒歩である。その後、『上総町村誌』や『千葉県史』によると、郷土の人力車台数の変化を次の如く記している。
 明治二二年、人力車台数は『上総町村誌』によれば次の如くである。
   長南宿一六。長柄山二一。皿木一〇。六地蔵四。刑部一〇。
 その後の人力車の変化は『千葉県史』によれば次表のごとくである。
 
  年度
地域
明治二九大正二大正一二昭和一二
千葉県二、九六六二、一〇五一、三一八四八一
長生郡二〇七一〇七七七二九
長柄町約一〇〇

 
 明治二二年(一八八九)には、長南宿よりはるかに多く、長柄町全体では四五輛に上っている。『本納町史』をみると、「明治一四・五年頃、橘神社の鳥居際の茶店が「タテ場」になっていて、人力車が五・六台あり、お客があると、車夫が麻なわで作ったクジをひき、これに当った車夫がお客を乗せて出掛る仕組であった。車賃は、大網まで五銭、茂原まで七銭ぐらいであった。」というから、それ以前から長柄山などにもあったと推測される。
 そして、同二九年には、百輛をこえ、長生郡の半数を占めている。これ程盛大だったのに、当時の車宿や車夫の有様を知る資料が見つからないのは誠に残念でならない。
 同三〇年(一八九七)に房総東線が一宮まで開通したため、急速に減少し、同四三年には、長生郡で一一六台となり、茂原、一宮、本納、長南の四つの組に分かれて営業を続けていたが、大正二年、郷土に僅か二台しか残らなかった。三橋胤雄氏の懐旧談によると、大正一二年には、上茂原に、人力車が一台あって営業していた由。氏は、九月一日、病院にゆくため、この人力車を傭い、診療を終えて帰り、現在の上茂原住宅付近にさしかかった時、突然、車が大きく揺れて、道路にほうり出された。ハッと我に帰ってみると、車夫は、梶棒を地面につけ、うつ伏していた。これが、関東大震災であったわけである。
 人力車は、この年頃を境として影をひそめ、一般庶民の乗物として、自転車や、自動車に、その役割を引継ぐことになるのである。なお自家用としては針ケ谷の小倉義男医師が所有し利用していたが、大正中期以降は乗馬で診察に赴いていた。