それは、自在車あるいは一人車とよばれ、三輪の車の槓杆を手でもって押し進めたものであった。言わば、子供用三輪車を、足で地面をけって進めるようなものであった。
洋風の自転車が輸入されたのは、明治一〇年(一八七七)代のことで、同三〇年頃からゴム輪に空気入りの自転車が町や田舎で見られるようになった。
本町で、最初に自転車がみられたのは、鴇谷の鶴岡季太郎氏であったがいわゆるふみきりで足を絶えず動かさねばならなかった。田畑で働いている人たちは、手をやすめて見えなくなるまで、見送っていたという。明治三〇年代のことである。同四二年頃には、価段が一台百円位(当時米一石十円位)で、その上県税、村税が、ふえるのでとても一般には手が出なかった。それでも明治の未には、所有戸数が一〇戸あった。鴇谷の永井義憲氏によると大正八年ごろ三輪車に乗り、大正十四年ごろ二〇吋の子供用自転車に乗っていたが特別注文で四〇円であったというから子供用も既に売出されていたわけである。大正一五年(一九二六)頃になると値段も一台三〇円程度になったので、通勤や通学用として、その利用も急速に増加した。そして、昭和四〇年頃には、庶民の足として、どこの家にも利用されるようになった。
表1 長柄町自転車台数(長柄町) |
年 | 所有戸数 | 全戸数に対する割合 |
明治末 | 10 | 0.7 |
大正 5 | 72 | 5.1 |
〃 15 | 309 | 21.8 |
昭和10 | 616 | 43.5 |
〃 20 | 755 | 53.3 |
〃 30 | 810 | 57.2 |
〃 32 | 1,696 | 103.3 |
更に、リヤカーが発売され、荷物の運搬、農具や農作物の運搬などにも広く利用されるようになり。また女性用の自転車も考案されて、次第に各家庭生活に重要性をましていった。
戦後になると、オートバイや自家用車が次第に普及し、自転車の利用は、衰えるかに見えた。ところが最近、その構造や機能が著しく改善され、坂道でも楽に上れる、二段・三段ギヤや、荷物を積める三輪車、子供用、婦人用サイクリング用と用途に合わせたさまざまなものが造られ、その需要も増大するばかりである。自転車は、町民の生活を一層快適なものにしていると言えよう。