3 自動車とオートバイ 3 Cars and motorcycles

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 我国で、自動車が実用化されるまでには長い年月を要している。先づその経過を辿ってみよう。
 明治一八年(一八八五)にドイツのベンツとタイムラが揮発油の内燃機関を完成してから日本へ始めて入ったのが明治三三年のこと。
 大正天皇が皇太子時代御成婚記念にサンフランシスコの邦人から献上されたものがそれであるという。(8)やがて同三五年になると、外国の外交官達が輸入して乗用を始め、翌年銀座にはモーター商会が出来、米国コロモビル会社の代理店も創設され、それぞれ数台の自動車をおいて、貴顕紳士の試乗に供したほか、三越や新橋の亀屋が宣伝をかねて貨物自動車を使い出した。
 乗用として治めて使ったのは、明始三八年(一九〇五)三井男爵や、大隈、渋沢氏などで、娯楽用として馬車や人力車と併用した。その後、四一年、森村市左衛門、大倉喜七郎などがハンドルをとって運転したというが、一般人民にとってはまだ別世界の乗物であった。しかし大正元年(一九一二)には、東京麹町に有楽町タクシー会社が出来、新橋駅に三台、上野駅に二台、本社に一台をおいて営業をした。以後急速に普及し、大正一五年には、東京市内一円均一という円タク氾濫時代を現出し、同年の自動車台数二万五千台で、昭和一〇年代になると一七万台に増加している。
 ところが、日華事変が始まり、燃料や資材が窮屈になり、薪や木炭などの燃料が使われ、煙を吐いた自動車が走るようになったばかりか、多数の車が徴発され、残った車は修理もきかず、半身不随のものが多かった。勿論一般農民には、どんなにしても、車は高嶺の花でしかなかった。終戦後は、軍の車が民間に転用され、更に昭和二四年(一九四九)には自動車の生産制限が解除され、更に外国からも大量に輸入され、国民所得の増大と相まって、一般庶民も次第に購入出来るようになった。昭和二〇年に十万台にすぎなかったものが、同二九年には百万台を突破し、未曽有の自動車氾濫時代を現出するようになった。
 次に本町の状況を眺めてみよう。
 オートバイは、昭和五年(一九三〇)に初めて一台入ったが、戦前は殆んど増加していない。戦後になり、同三〇年に五〇台、同四〇年に四五〇台、同四六年には六九〇台と激増し、同五〇年には一〇九一台を数えている。その原因を考えてみると、オートバイが比較的低廉で操作も簡単で婦人や少年にも扱い易く、その上狭い道路でも自由に運転できる利点をもつことによる為であろう。その上自転車にくらべスピード感にあふれ、通勤通学用に欠くことのできぬものとなった。しかし最近は道路の改善や利用価値等の点から、乗用車に代りつつあるといえよう。
 乗用車の推移をみると、千葉県に初めて二台入った大正二年(一九一三)には、本郡にも本町にも勿論入っていない。昭和二五年(一九五〇)に漸く本町に二台であった。ところで、それから十年後の三五年には一七台に過ぎなかったが、四〇年に四八台となり五年後には十倍の五一九台に躍進した後一戸一台以上に増加し、自転車をしのぐ状態となった。これは本町に兼業農家が多く、経済的に恵まれてきたこと、地域的に交通の便に恵まれない通勤者が多いこと、道路の整備が著しく改善されたことなどの理由によるものであり、乗用車の需要は今後更にますものと思われる。戦前の生活を考えると夢のようである。
 乗用と運輸を兼ねたライトバンは、昭和四五年以降徐々に伸びを示しているが町全体の戸数からみるとごく僅かである。農家では耕耘機が多く利用されている為であろう。
 一方運送を目的としたトラックはここ数年来増加の傾向にあり、タクシーの営業も追分に追分タクシー(社長石川精一郎)が開業されている。
 
表2 自動車保有台数(課税台帳による)
オートバイ乗用車ライトバントラック
昭和 51
  101
  150
  203
  25521
  3053318
  3514717417
  40457481035
  456735192883
  466943973294
  501,0911,153118280
  531,7462,525

 
 
表3 自動車台数(千葉県史)
年 度大正2年大正14年昭和12年
乗 用貨物用乗 用貨物用
千葉県9台3651951,3491,161
長生郡1267158

 
 このように、自動車時代が出現したことによって、時間と距離は大幅に短縮されたか、交通事故も各所に発生し、交通安全に対する対策も急務となってきた。