5 南総鉄道 5 The Nanso Railway

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 この鉄道は、鶴舞駅で小湊鉄道に連絡させ、房総半島の横断鉄道とし、万田野(市原市)の砂利輸送を主体にのびることをねらいとして計画されたものである。しかし、その計画のなかばを達した程度で、開業後僅か九年目に廃止の止むなきに至った。
 現在の房総鉄道は、当時の計画では、難工事が予想される土気をさけ、誉田から直接南下して、長柄―長南―大多喜へ延ばす予定であったが、汽車が通るとその振動で稲がみのらないとか、煤煙が人体に害を及ぼし、また火事になるおそれがあるという迷信的な流言からいろいろな反対もあって、路線を変更、本納―茂原―一宮に開通したのが明治三〇年(一八九七)のことであった。この鉄道の開通によって、沿線の住民は、大きな便益をうけるようになったが、これに対して内陸地の長南、豊栄、水上等は、極めて不便な生活を送っていた。
 そこで、地元民は、何とか交通の便をよくし、地域の発展を図りたいと望んでいたが、たまたま、県会議員糸井玄氏は、この中心となって活動し、大正一四年(一九五二)九月三日、茂原鶴舞間一七六キロの地方鉄道敷設の認可を得て、南総鉄道株式会社を創立した。資本金四三万円、社長は糸井玄である。昭和二年七月工事に着手し、同五年八月一日、茂原―笠森間一一・二キロが完成した。
 車は二輛で、四〇人乗りのガソリン車であったが、沿線の住民には、大きな利便をもたらした。然しながら、日支事変もはげしくなり、ガソリンや物資が統制され、同一四年二月二八日廃業の止むなきに至ったのである。
 ただバス部門だけは残ったが、これもやがて袖ケ浦自動車会社に買収され、更に戦時統合により、同一九年(一九四四)一一月二一日、小湊バスに統合された。
 日吉、水上方面には株主も多く、相当広範囲の人に利用されていた。現在存続して初めの予定のごとく五井まで延長されていたならば、房総地域の重要な横断鉄道として、地域の発展に貢献したであろうことを考えると惜しまれてならない。
 

南総鉄道株券(大野達雄家蔵)