明治以来私達は左側通行を行ってきた。しかしこれがいつ頃から決ったものか明かではないが、樋口清之氏は次の如く説かれている。(10)
「江戸時代からは、作法として左側を歩くことがきめられてきました。殿中での作法では、廊下はそう広くないから、必ず左側を歩きました。そうでないと腰のモノがぶつかり合います。それがやがては道路にまで延長されて、大名同志が参勤交替で行き違うと、身分の低い方が進行方向の左側によって、止ったのです。このとまるということも礼儀です。必ず右側の行列がゆき過ぎてから、左側も動き出す。決して同時に動きながらすれ違うことはない。個人の場合でも同じように、「どうぞお先に」と言って譲り合ってとまったのです……」。
明治に入りこれが交通規則となったのは、『明治文化史』(11)のなかに、「東京では、明治五年(一八七二)から七年にかけて、人道と車馬道の区別が整い、中央を車馬道とし、左右を人道とした。しかしその人道を特に左側通行すべきであると言われるようになったのは、明治三九(一九〇六)年ごろで、警視総監から、車馬の衝突の危険を防止するため、人道の区別あるなしを間わず歩行者は、みな道路の左側を通行すべしとの喩告が発せられてからである」という。なお、四才未満の子どもを、道路にひとり歩きさせてはならないとか、電車専用のレールの上は、横断の場合のほか決して通行してはならないといったようなことも喩されている。ただ軍隊では、特例を設け、軍隊並に砲車、輜重車に限り、右側に避くべきであるとの警視庁令が明治一八年に出されていた。
ところが、終戦後、車の通行が繁しくなり、交通事故も、急速に増していった。その原因は、車も人も同一方向に進むことにあるのではないかということが検討され、昭和二四年(一九四九)から、人は右、車は左という対面交通のルールに改正され、現在に及んでいる。