電信機の渡来

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安政元年(一八五二)二月、アメリカのペリー提督は、横浜で電信機の実験を試みた。(10)これは蒸気機関車の模型などと共に大統領から海軍への贈りものだった。始めてみるエレキ(電気)の機械の不思議さに日本人は目をみはった。その年オランダも電信機を幕府に献上した。それで、将軍家定も臨席、今の浜離宮恩賜公園で実験を行ったが、これが日本人の手による最初の電信の実験であった。
 やがて、明治維新を迎えると政府は、明治元年(一一六八)一二月、電信を官営とすることを決め、一切の取扱は、神奈川県知事寺島宗則が行うことになった。早速イギリスから機械を取よせ、技師ジョージ・キルベルトを招いて電信の建設に取かかり、同二年、東京横浜間に開通をみた。通信料はカナ一字で銀一分(一厘六毛)、二〇字で三銭三厘になる。その外配達料も取られるので相当高額になり、一般人には縁が薄かった。当時の人々は、電信のことを「テレガラフ」と呼び、キリシタンの魔法と考えた者もいて、電線に石を投げたり、切断する者が後をたたなかったという。(11)
 本県では、明治一二年(一八七九)三月、千葉電信分局が設置され、東京との間に通信を開始したのが最初である。(12)この頃は、東京から全国の県庁所在地に電信が開かれ時期である。その後、次第にふえて、同一三年四月一日、千葉―佐倉間が開通し、同一七年佐原木更津間、同一八年九月には銚子電信分局が設置されている。ただ、本県は地理的に半島であって、本土縦貫の大幹線からはずれ、その普及がやや遅れたことは否定できない。