電話の発明は、グラハム・ベルにより、明治九年(一八七六)のことであるが、翌年一一月には、横浜のバダヴイア商会の中で、早くも二個が、アメリカから輸入されている。工部省は、電信機の製機場で構造を研究させ、同一一年六月、二個の電話機製造に成功、以後五か年に一六個を製作した。同一八年(一八八五)逓信省が創立され、前島密が次官に任命されると、彼は熱心に事業の遂行に努力し、同二二年一月には、東京―熱海間に公衆用電話が開始されるまでになった。当時一通信の料金は五分で一五銭、白米四二キロの値段に当っている。
ところが、千葉県では、早くも明治一二年一二月に、県庁監獄署間に電話を架設し通話を行ったのである。(13)その後同三三年千葉県警察が、六回線の外線を有する交換をはじめた。当時県庁警察部には二〇回線の交換台が備付けられていた。
一般公衆用の電話としては、明治三六年(一九〇三)六月、千葉郵便電信局と東京との間に通信を開始したのが最初であるが、交換業務は、明治四一年四月銚子郵便局で取扱ったのが最初であるという。本郡市では、一宮郵便局に開設されたのが同四二年一二月二日で、県下では三番目、茂原は少しおくれて、明治四五年四月一日であった。
その後、昭和二〇年代までの本県は、一口に言えば後進的であった。ところが、昭和三〇年代に入り、京葉臨海工業地帯の造成、東京のベットタウンとしての住宅団地の建設など産業構造の変化が、通信事業の飛躍的な発展をもたらし、電話の自動化も急速に進み、全国即時通話を可能にするようになった。(14)