明治政府は、明治七年(一八七四)、社会福祉に関して我国最初の「恤救規則」を公布したが、(1)その考え方は現在の福祉と異り、貧民救済制度であった。即ち、貧乏は、人民同志で救い合うべきものだが、どうしても放任しておくことのできない困窮者だけに、生活費(一日男米三合女二合)を支給するというものであった。その適用範囲は、ア七〇歳以上の独身老衰重病人、イ不具廃疾者、ウ生業を営めない病人、エ一三歳以下の子供の四者に限定した。その後、大正六年(一九一七)二月、千葉県令第七号で、適用範囲を拡大することが考えられ、昭和四年には「救護法」が帝国議会を通過したが実施されず「恤救規則」が廃止され、実際に適用されたのは、「恤救規則」制定から五〇年後の昭和七年(一九三二)であった。この規則の適用によって、適用人員は、全国で、二万人そこそこから一挙に二四万人にもふえた。(2)まさに、我国における生活保護行政の誕生ということができる。
その他、「捨て子養育米給与法」(明治四―昭和六)といって、捨て子を養育する者に、米を年七斗支給する規則や、三つ子出産の貧困者に養育料として、一時金五円を給与する規則等があった。
その後、日清日露の戦役を通じて、我国の産業革命が達成され、労働運動が本格的に行なわれ始めたのである。
第一次世界大戦は、我国に、今までなかった好景気をもたらしたが、暫くたつと、全世界を襲った不況の波が日本にも影響し、失業者はかつてない数となり、多くの生活困窮者を出した。このような情勢の中で、各種の社会事業が急速に増加した。「社会事業」という言葉が一般に使われるようになったのは大正以降で、それ以前は、救済事業とか慈善事業と呼んでいたのである。(3)この頃岡山県の済世顧問制度をもとにした民生委員制度が設けられ、大阪府での方面委員規定の公布を始め、全国的に普及し、昭和三年(一九二八)には、方面委員制度は、全国に普及した。
昭和八年に、児童虐待防止法、少年救護法が制定され、感化院が懲戒的性格であったものを教育中心の保護を行うことに改めた。昭和一三年(一九三八)に農民を対象とする国民健康保険法が制定されたが、これ以後、わが国の医療保険は、職域と地域の二つの流れをもって発展し、今日に及んでいる。年金について日本の制度化は極めておくれ、終戦前は官公吏を対象とした恩給があっただけで、労働者年金保険の実施は昭和一七年のこと、一九年に厚生年金保険と改称され、現在の厚生年金制度につながっている。
発布年 | 法 令 |
昭和二二年 | 児童福祉法 |
〃 二三年 | 民生委員法 |
〃 二四年 | 身体障害者福祉法 |
〃 二五年 | 生活保護法 |
〃 三五年 | 精神薄弱者福祉法 |
〃 三八年 | 老人福祉法 |
〃 三九年 | 母子福祉法 |