表10 長柄の医師 |
氏 名 | 開 業 年 | |||
幕末 | 明治 | 大正 | 昭和 | |
富永元益 | ○ | |||
木村玄哲 | ○ | |||
石川良俶 | 23年 | |||
小倉義男 | 25 | |||
木村秀治 | 29 | |||
柴崎松蔵 | 30 | |||
川崎一郎 | 34 | |||
佐久間太一 | 元年 | |||
神崎一雄 | 2 | |||
阿部徳三郎 | 8 | |||
足立俊一 | 12 | |||
神崎和子 | 24 | |||
三村孝一 | 27 |
表11 千葉大学医学部の変遷 |
明治10年 | 千葉病院医学教場 |
同 15年 | 千葉県立医学校と改称 |
同 20年 | 第1高等中学校医学部設置 |
同 21年 | 県立医学校廃止,同上校に合併 |
同 27年 | 第1高等学校医学部と改称 |
同 34年 | 千葉医学専門学校と改称 |
(千葉県教育百年史第一巻) |
明治時代は、日吉長柄には、医師が居ったが水上は、無医村だった。明治三八年三月、刑部内藤勉吉(内藤正雄家文書)の「種痘証」は、市原郡市西村新堀の医師高橋竜轍が証明しているので、刑部方面は、市原郡から医師を頼むことが多かったと思われる。そして水上に神崎医院が開業したのは大正二年(一九一三)である。戦後は、町在住の医師が減少したが、交通も便利になり、茂原方面にも自由に行けるようになったことによるであろう。
幕末から明治初年にかけて、二人の医師の名がみえる。両人とも、幕末から明治にかけて活躍しているが、富永元益については、その墓碑銘に、経歴の概要が記されているので、ここに記すことにする。
この碑は、長柄町高山、渋谷勗氏墓地側に立っている。この碑文によれば、元益は、渋谷安衛の二男に生まれ、一九歳の時東京へ出て、川口基に医学を学び学業も成就したので、郷里に帰って家を興した。そして、高山村領主鈴木万次郎に仕え、士分に取立てられ、富永姓を賜った。藩医として出仕すると共に、近郷の子弟の教育もした。晩年は、鶴舞に寓居をもち、明治一〇年七月二六日歿した。また、妻秀子之墓碑をみると、元佐倉藩山村邦幾の女で、五男一女を生んだと記されている。長男が篤実でやはり医師になっている。明治六年徴兵令が布かれ、壮丁の容体書には、元益や篤実の名が記されている。(内藤正雄家文書)
富永友義之墓 〔第一世〕
家君諱友義通称元益号郁堂。渋谷保衛第二子也。年甫一九。決然辞家往東都修綾瀬亀田氏。
修経書、従東斉川口基攷究医学。於是志業遂矣。帰郷自立成一家。仕鈴木君。為土分、加賜本氏。因称富永。実始祖也。以医為業。
傍教育近郷子弟。恒玩風月。自娯晩年。寓鶴舞緑街罹病而歿。干時明治十年七月廿六日也。享年七十。於栄田翁之立志徳行別録而蔵家。因記其一斑。
第四十区一画
長柄郡高山村
医術 富永篤実弟
一身文 富永孫四郎
右之者今般徴兵被仰付候ニ付身幹検査ノ処宿痾不具等之義無御座候ニ付此段以書付奉申上候以上
明治六年二月 右村
医術 富永篤実
親類組合代
尚、歯科医と獣医は、数は少い。獣医は、戦前、各家で馬や牛が多かった時代には、その活動範囲も広かったが現在では、その活動も異っている。次に現在知り得た限りでのかつての長柄町における医師の足跡をたどり一覧表を作ったのが、次表である。
家君諱友義通称元益号郁堂。渋谷保衛第二子也。年甫一九。決然辞家往東都修綾瀬亀田氏。
修経書、従東斉川口基攷究医学。於是志業遂矣。帰郷自立成一家。仕鈴木君。為土分、加賜本氏。因称富永。実始祖也。以医為業。
傍教育近郷子弟。恒玩風月。自娯晩年。寓鶴舞緑街罹病而歿。干時明治十年七月廿六日也。享年七十。於栄田翁之立志徳行別録而蔵家。因記其一斑。
第四十区一画
長柄郡高山村
医術 富永篤実弟
一身文 富永孫四郎
右之者今般徴兵被仰付候ニ付身幹検査ノ処宿痾不具等之義無御座候ニ付此段以書付奉申上候以上
明治六年二月 右村
医術 富永篤実
親類組合代
尚、歯科医と獣医は、数は少い。獣医は、戦前、各家で馬や牛が多かった時代には、その活動範囲も広かったが現在では、その活動も異っている。次に現在知り得た限りでのかつての長柄町における医師の足跡をたどり一覧表を作ったのが、次表である。
(医師) |
地区 | 医師名 | 住 所 | 生年・歿年 | 免許所得 | 略 歴 |
旧 長 柄 村 | 柴崎蔵林 | 上野 | 明治六年生 大正九・四・二歿 | 明治三〇年 (千葉医学専門学校卒) | 学校卒業後数年は明かでないが、明治三七・八年日露戦役に従軍。同四〇年より郷里で開業する。山田ます医師の生家である。 |
木村秀治 | 飯尾七〇八 | 明治六・一二、一一生 大正一三・一二・一七歿 | 明治二八・一〇・二四 (前期・学科・後期実地をとる) | 明治二八年、免許取得と同時に開業したものと思われる。長柄小学校々医となる。大正一二年死去により廃業。現在当主哲。 | |
木村玄哲 | 同右 | 天保二生 明治一七年・一一、一八歿 | 免許取得年月日不明 | 幕末から明治にかけて、医術を営んでいたという。(当主哲氏談) | |
山田ます | 味庄一 | 明治四一・四・二〇生 現職 | 昭和六年 (東京女子医大卒) | 卒業後、東京都の診療所に勤め、昭和二〇年一二月より現地に開業。校医三〇年勤め表彰をうける。現在も健在で医療に当る。 | |
旧 日 吉 村 | 石川良俶 | 鴇谷 | 慶応元五・一二生 大正九・一・三〇歿 | 明治二三年、千葉医学専門学校卒業 | 後郷里に開業。大正九年死去により、廃業する。日吉、水上方面馬で往診する。千葉医専(現千葉大)卒では本町の最初の人。 |
小倉義男 | 針ケ谷 | 明治二・一一月生。 昭和二三・一二・四歿 (八〇歳) | 明治二五年 千葉医学専門学校卒 | 学校卒業後、郷里に開業。開業祝賀は煙火をあげて賑ったと言う。昭和二三年まで五六年間診療に当る。明治四二・三年長生郡医師会長となる。地域文化振興につくした。 | |
川崎一郎 | 榎本 | 不詳 | 明治三四年、慈恵医学専門学校卒 | 卒業後郷里に開業し、大正一五年茂原町に転出、榎町にて医業を営む。戦前まで。 | |
阿部徳太郎 | 桜谷 | 明治二〇・七・一二生 昭和四八・七・三一歿 (八七歳) | 大正八年年五月 千葉医学学専門学校卒。 | 大正八年鈴木胃腸病院勤務以後大正一二年東洋汽船株式会社。大阪商船等船医歴任、昭和五年一一月郷里に開業。四八年迄医療に従事する。 | |
足立俊一 | 立鳥 | 明治三〇・七・七生 昭和四九・九・三〇歿 | 大正一二年慈恵医学専門学校卒 | 卒業後、国鉄診療所等に勤め、昭和三四年郷里にて開業する。校医等を勤めた。 | |
佐久間太一 | 鴇谷 | 明治一九・一〇・二四生 昭和二・四・一〇歿 | 大正元年、独学にて検定合格 | 上埴生学館卒業後、一七歳で東京に出て、二七歳で検定に合格、大正元年東京池袋に開業盛大であったが、病のため四一歳で茂原に帰り、四二歳で歿する。 | |
旧 水 上 村 | 富永元益 | 高山 | 文化一四年生 明治一〇・七・二六歿 (七〇歳) | 川口基につき医学修業。 | 幕末高山村領主鈴木万次郎に仕え、士分に取立てられ、藩医となる。維新後は、郷里に帰り、鶴舞に住み、明治一〇年歿、長男篤実も医師となったが詳細はわからない。 |
神崎一雄 | 刑部 | 明治二二・九・一生 昭和三七・二・三歿 (七四歳) | 大正二年八月 東京慈恵医学専門学校卒 | 大正五年、刑部に開業(二七歳)昭和五年―同一二年長生郡医師会副会長。長男寿雄が、昭和二五年三月、慈恵医科大学を卒業したが、三八年死去のため、一雄氏の後は神崎和子が病院をうけついだ。 | |
神崎和子 | 刑部 | 大正七・八・一九生 (北海道旭川) 昭和四八・七・一五歿 (五四歳) | 昭和二四年五月 第六回医師国家試験合格 | 昭和一四年三月帝国女子医学薬学専門学校薬学科卒。同一九年医科入学。二三年卒業その後千葉大医学部専攻生、三五年学位をとる(医学博土)。五井保健所、愛知・茨城県病院に勤め三七年一一月刑部に神崎医院開業。和子死亡後、医師大沢登喜子(長生村大沢茂樹夫人)が、昭和五一年まで、週二回出張した。 | |
三村孝一 | 刑部 | 大正一五年・三・一生 (北海道函館市) | 昭和二七年四月 千葉医科大学卒 国家試験合格(外科) | 父は、陳就、東大医学部卒、外科医。二七年―三六年、千葉大医学部第一外科、附属病院助手を勤める。三四年三月、医学博土受領。その後、茨城国保院長、浦賀重工K、K病院外科部長、北品川総合病院外科部長、小沢病院副院長歴任、五一年一〇月より、神崎医院にて開業、現在に至る。 | |
大岩又一郎 | 月川 | 不詳 | 不詳 | 明治三七年九月発行千葉文庫『百家名鑑』によると、「水上村刑部、衛生家、家伝接骨医大岩又一郎」と記されている。古老(大岩博氏の父)の話しによると、大正の初め頃迄、近くに家伝薬を使って骨折をなおす人がいた由。その名は、又二さんとその妻たきさんと云った。又一郎の弟でしょうか。その子と孫が医師になり、子は亡くなったが、孫は浜松で開業しているという。 |
なお、大津倉の武井家文書をもとに江戸中期よりの医家の系譜をかかげておく。地方の医学史資料の一部ともなれば幸である。武井家は町医師はやっていなかったが、幕末には鶴舞藩の医師をつとめ、元禄時代から、代々藩医師をつとめた珍しい家柄である。医学は、江戸時代の幕府に仕えた蘭学の大家、桂川甫三(国華)(一六九五―一七八一)、桂川甫筑(一六六一―一六七四)、桂川甫周(一七五一―一八〇九)などに教えをうけている。八代栄蔵以後は、大津倉に住み(廃藩により)農業を営み、現在清氏は一一代である。
武井家系譜(現在一一代) |
代 | 氏 名 | 略 伝 |
元祖 | 大祖先 武井安旋 | 本国甲斐 源姓 竹居 不詳 住甲州武井村。以瘍科医為業。元禄一一年一一月二二日卒行年不詳。 |
初 | 甫純 後甫真と改、号自体 | 享保七年一〇月二三日(四八歳)師家桂川甫筑法眼報教先生の推挙に依り、井上河内守正之公に仕え、二五人扶持を賜り、江戸に住む。寛保三年四月二一日病気隠居、一八人扶持。延享四年二月二日卒。七三歳。 |
二 | 玄益 初純庵後改甫真 | 師桂川報教先生、国華先生。寛保三年四月二一日大和守正経公にお目見え、二五人扶持賜る。その後十人扶持加増、宝暦一一年七月一二日卒、行年不詳。 |
三 | 甫真 後改周最号五息斉 | 仕河内守正経公河内守正定公両君浪土山口長左衛門惣領玄為養子伝焼失不詳一五人扶持。寛政四年八月一七日卒。行年不詳 |
四 | 甫繁 改周庵名致教号自斉 | 安永九年、二五歳周最養子となる。河内守正定公に仕える。銀八枚三人扶持。寛政四年一〇月一一日一五人扶持文政二年正月二五日卒。秋田信濃守様家土郡司源右ヱ門三男 |
五 | 周佐 名好一号標涯改周最又周作周庵 | 天明七年七月二五日生。天保八年一二月一〇日卒行年五一享和元年六月一四日河内守正甫公にお目見え。同四年七月二三日桂川甫周法眼国端先生に医術修業文政二年三月家督つぎ一五人扶人。 |
六 | 周最 名典竜字雲郷号推庭 | 天保七年一二月二七日、河内守正春公にお目見え、翌年家督をつぎ一〇人扶持。安政五年七月一二日卒行年四二 |
七 | 亮三 | 慶応三年二月一〇日卒 医師 |
八 | 栄蔵 | 大津倉石井六蔵三男養子とする。農業明治八年五月一二日卒 |
(歯科医) |
地区 | 医師名 | 住所 | 生年・歿年 | 免許取得 | 略 歴 |
長 柄 | 矢部康治 | 八反目 | 明治二五・七・一五生 昭和四三・一一・八歿 | 大正一三・三・東京歯科医学専門学校卒 | 大正一三年八月、長柄にて開業、その間歯科医師会役員。学校医三三年間勤めて功績をあげた。死亡により廃業。 |
柴崎つな子 | 味庄 | 明治三八・八・一〇生 | 現在味庄にて開業、市原、日吉、水上方面からの患者多し。 | ||
日 吉 | 小出市郎 | 長富 | 明治一三・一二・二五生 昭和三〇・一二・一〇歿 | 東京都品川にて修業免許取得 | 昭和五・六年頃東京にて歯科医を営み、昭和一〇年八月日吉に開業、死去により廃業。 |
水 上 | 石川敏雄 | 大庭 | 大正一〇・五・二五生 | 昭和一七・九・三〇日本歯科・専門部卒 | 卒業後、一七年一〇月一日出征、二一年六月復員。二二年二月―二五年五月迄大庭に開業。六月牛久に移転現在に至る。 |
(獣医) |
地区 | 医師名 | 住所 | 生年・歿年 | 免許取得 | 略 歴 |
長 柄 | 石井登 | 皿木 | 明治二二、七月生 昭和半ば頃 歿 | 大正初年 東京麻布獣医学校卒 | 大正三、四年頃郷里に開業、長柄のみならず、日吉、水上と、湿津方面に広く診療を行った。 |
岡本光年 | 山之郷 | 昭和一〇、一、一〇生 | 昭和三二年三月 日大農獣医学部獣医科卒 | 卒業後、郷里酪農組合に勤めた、四七年、茂原農業協同組合に勤務し現在に至る。 | |
日 吉 | 松崎正行 | 鴇谷 | 明治二九、八月二二生 昭和四三、八、二三歿 | 大正の初め、日大農獣医学校卒 | 卒業後、栃木県軍馬種馬場勤務となったが大正後期、郷土に帰り、開業する。日吉、水上豊栄方面にも診療を行った。 |
渡辺昌治 | 鴇谷 | 昭和一一、六、二一生 | 昭和三四年三月 日大農獣学校獣医科卒 | 郷土にて開業、現在、農業共済組合家畜診療所夷隅支所勤務。 | |
渡辺一夫 | 小榎本 | 昭和三一、九、二九生 | 昭和五五年三月 日本獣医畜産大卒 | 卒業と同時に、千葉県共済組合香取家畜診療所勤務(佐倉市) |