1 富山売薬のおこり 1 The origin of the Toyama medicine business

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 私達は子供の頃、よくこんなうたを口ずさんだ記憶がある。「越中富山のはんごんたん(反魂丹)、鼻くそ固めたせいしん丹(清心丹)、それをのむ奴あんぽんたん」と。
 当時は、大きな紙袋に、万金丹や反魂丹などという薬が入れてあって、年二回富山の薬屋さんが来て、中味を取替えていった。紙風せんなどをおまけにくれたものである。腹が痛くなると赤玉という苦い丸薬を飲むと不思議によく効いた。一体、この富山のくすり売はいつ頃から始まったものであろうか。『平凡社・世界大百科事典』によると、「富山売薬の起源は、元禄年間(一六八八―一七〇四)と伝えるが、その発展は、一に置薬(配置売薬=先用後利)という独得の販売法によるといってよい。この方法は、行商人が、各家庭に売薬を預けて使用させ、次の巡回時使用分の薬代を徴収し更に新薬を交換補充する一種の掛売制度で、巡回する行商範囲を懸場(かけば)、得意先名簿を懸場帳といい、その持主を帳主とよんだ」とある。懸場帳は、行商人の財産であり、猥りに他人の懸場を犯すことは許されなかった。「反魂丹」という薬は、玉川信明著『反魂丹の文化史』によると、今の総合胃腸薬に当るもので当時非常によく効くので目玉商品であった。その由来は「備前岡山の医師岡山浄閑なる者が、天和三年(一六八三)富山藩主前田正甫(まさとし)公に伝え、公は、その方書を日比野小兵衛を通じ、薬種屋松井屋源右衛門に渡して作らせ売出させたもの」だという。
 しかし、実際にその起源は、もっと昔にあったようだ。それは、立山信仰と深い関係をもっている。反魂丹という特異な名前は、吉野朝時代の一武士の立山信仰から生まれたとされている。(『反魂丹の文化史』二〇一頁)、その頃京都の士で長政春なる者がいて、越中礪波地方に居住していた。或日、母が重病にかかったので、立山に上り、一心に不動明王と阿弥陀如来に平愈祈願をしていると、熊胆硫黄をまぜた処方を授けられた。ところがそれを求めて帰ると母は既に事切れていた。政春は泣く泣く、せめて骸にでも霊薬をのませてやりたいと、この混薬を母の唇に注いでやると、不思議にも母は眼を開き息を吹き返した(反魂した)というのである。又一説では、室町から、立山山麓の芦峅寺(あしくら)や岩峅寺では、御師達が全国に、立山信仰の普及と参拝勧誘のため「配札檀那廻り」を行っていたが、その際、みやげに薬を持ち歩きまた販売もした。そして、交通事情のよくなった延宝、元禄から幕末へと次第に盛んとなり、これが、富山のくすり売のおこりであろうという。
 このようにみてくると、富山のくすりは、古い歴史に育てられ、たまたま、前田正甫という名君が出て、それを盛にしたというのが実態ではなかろうか。それにしても、この薬が立山信仰と結びついていたことで、全国へ広まったわけである。尚富山のくすりについて、参考としたものは、前著の外、玉川信明著『風俗越中売薬』根塚伊佐松著『売薬版画―おまけ紙絵の魅力』などである。