長柄ふる里村

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長柄「ふる里村」は、長柄町上野の原野、約三〇万平方メートルの土地を開発し、自然の景観を保ちながら、いろいろな休養施設を建設しようとするもので、事業者は、日本土地改良株式会社である。事業主は、この「村」の建設の目的を次の如く述べている。
 
 長柄「ふる里村」は、「自然と住む人との友好を築く」ことをテーマとして、自然を守り、健康教育文化を培い育む、自然と人と施設とが「三位一体」となって調和した自然環境の創造を具現しています。ここに住む人、訪れる人々が歳月をかけて、真の豊かさ、真の幸福、真の健康を真摯に考え、創造的な生活を熟成させて、次の世代に、その伝統と美しい自然環境を残し、伝えてゆこうとする「村」を造ろうとするものです。
 
 そして、ここに施す事業として次のようなものを計画している。既に相当完成している。
 ① 遊歩道(幹線六m・支線四m)
 ② 広域水道施設
 ③ 排水施設、雨水は自然流域(調整池) 汚水、一次二次抜気式、三次砂ろ過蒸発拡散。
 ④ 電気電話導入済
 ⑤ 管理施設、上野四六八番地に旧スイス大使館の建物を移築。コンミニケーションセンターと名づける。(後に由来を記す)
 ⑥ テニスコート六面全天候式(増設八面)
 ⑦ プール、遊園池式全長一三〇m
 ⑧ ステージ 宿泊施設(貸別荘、ロッジ)四人収容六棟(三五棟増設)
 ⑨ 日本庭園
 ⑩ 広場 芝生広場
 ⑪ 分譲地 山林一六万四四一八m2を一二〇~一五〇区画(一三〇〇~一〇〇〇m2)

 概要以上の通りであるが、管理施設の由来について、次のように述べている。
 
  旧スイス大使館建物の由来
  昭和初期の代表的建築物である「旧スイス大使館建物」は、昭和三年六月から一年有半の工期を費し、昭和五年、日本郵船株式会社の創設者、近藤康平氏の後嗣、故近藤滋弥氏(当時貴族院議員、男爵)の別邸として、東京麻布広尾町に建てられました。
  入母屋総ヒノキ造り二階建ての純和風邸宅で建坪が二百三十九坪(七百八十八平方メートル)、全室が京間取り、関西風造形で、あの桂離宮にも相通ずる伝統工芸美を持つ、日本建築の粋と高く評価されていました。
  昭和二十年から五十三年まで、スイス連邦共和国大使館として使用され、甍の色と漆喰の白壁が調和した美しが、同大使館を訪れた内外の人々に愛されました。ことに歴代スイス大使は、この建物の美しさのみならず、その文化財的価値に深い理解を寄せ、原形を損わぬよう、細心の配慮のもとに管理されてこられました。
  大使館機能が拡大し新館建設の運びとなるに及んで、同大使館では、貴重な建物の保存について考慮されていましたで、そこへ〝自然と住む人との友好を築く〟長柄「ふる里村」が、自然を大切に考えている人々によって創造されていることを聞かれたピエール・クエヌー在日スイス大使が、国際親善に役立つとともに、スイスと日本の親しい交流のシンボルになる、として、強く共鳴され昭和五十三年十一月、スイス連邦共和国より長柄「ふる里村」に寄贈されました。
  移築復元には慎重の上にも慎重を重ね、八ヵ月の期間を費しました。工事を担当した株式会社内野屋工務店の内山健治郎氏(代表取締役専務)は「このような建物は、材料の入手、費用などの点から考え、現在では建築が不可能に近い」と語っています。それだけに、この建物を後世に残す意義には計り知れないものがあります。
  長柄「ふる里村」では、この建物をコミユニケーションセンターとして活用するとともに、住む人、訪れる人の友好のシンボルとして、次の世代へ継承してまいります。
 なお、ふる里村は、一九七九年七月三〇日スイス連邦国ヴオー州グランポー村と姉妹村の盟約書を交換し、両村が友好と信頼のもとに、人びとの健康、教育、文化に貢献することを盟約し合った。
 以上が、その現状であるが、今後独得な存在として、整備され発展してゆくことと思われる。現在、全国各地から見学に訪れたり、施設の利用を希望する人々で賑っている。