四 警防団 4 Civil defense units

616 ~ 616 / 756ページ
 支那事変の進展に伴って、従来の消防体制では警備の維持が困難となった。
 消防組は原則として空襲とか、焼夷弾などの状況下に於ての防災は考慮されていなかったので、いわば戦時下に於ても機能を失わない消防組が必要となった。この意味で発足したのが警防団で、昭和一四年(一九三九)四月一日から実施された。警防団時代八ケ年は困難の頂点にあった為に、日夜灯火管制、防空壕待避、焼夷弾投下に対する消水作業、敵前上陸に対する竹槍訓練等正に幹部も、団員も寝る暇もなく、加えて応召者が続出する毎に団員が減少して、遂に婦人や少年達まで団員代りに出勤する分団も生じた。その当時「機関銃に竹槍」と言う言葉があったが、警防団員が敵の来襲に竹槍をもって待機している処を、敵戦闘機が機関銃で乱射するので全く問題にならなかったことは言う迄もない。
 さて昭和二〇年(一九四五)敵前上陸の気配濃く、空襲は頻発し、五月には帝都空襲で傷付いた帰りの敵機B二十九が日吉村上空に於て遂に機力を失い、榎本地内に墜落した。其の際桜谷、長富、徳増地内等に亘り落下傘降下等に依り捕虜、死傷者等多数を出し此等の処置に対処するため、日吉警防団は、駐屯して居た軍隊と共に敵兵と決戦して郷土を死守しようとした。又多くの幹部員は水盃を交して覚悟をきめていたが、間もなく終戦となり戦場化しないですんだのは幸であった。
 警防団時代の団長は次の如くである。(水上・長柄地区には書類がなく不明である。)
 日吉村警防団  加藤源良夫 安部喜義 阿部勝 尾高千三雄。