[[警察制度のはじまり]] [[Start of the police system]]

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 慶応四年(一八六八)九月八日、時代は明治元年となった。明治の年代は、日本が江戸期三百年にわたる封建制度から、天皇を中心とする全国統一の立憲政治へと進んだ変化の激しい時代であった。維新革命後相当期間は混乱の時代で各地に不平士族等の蜂起暴動等があり最後には西南戦役にまでなった。その後国内の治安は静まったが、続いて起った民選議員要求の運動、憲法発布の前後における政治上の紛糾、十年を隔てた日清日露の大戦、それらの間を通じて見られた国力の異常な発展と社会の変化の多い時代であっただけに治安を維持するための警察制度の整備はなにをおいても急がなければならない重要なことであった。明治の警察制度は、欧州の警察制度を研究し、山県有朋、川路利良を中心として強力にすすめられた。
 東京府では、明治四年(一八七一)廃藩置県が行なわれたので欧米のポリスの制にならって同年十月に東京府取締りのため邏卒三〇〇〇人を備えることになった。
 明治初年は、士族対策ということが重要課題の一つであった。邏卒の設置は反面に録を離れた士族対策という意義を持っていた。西南の役で世に名高い田原坂の激戦の際勇猛果敢な奮戦をした抜刀隊は選抜編成された邏卒であったのである。東京府の治安や、これらのことはさておき、千葉県の治安はどうであったかというと、明治六年(一八七三)に柴原県令(千葉県の初代官選知事)はそれまであった村小役(捕亡吏の使役となり犯人を追捕する役)を廃して、東京府の制にならって邏卒を置くことにした。尚これよりさき、中央では、明治六年一一月に内務省が設置され、内務卿が全国行政警察の長となり、司法卿が司法警察の長となって、司法省に属していた警保寮は内務省に移管された。明治八年(一八七五)三月七日に行政警察規則が定められて、四月一日より東京府以外に施行され同時に従来の捕亡吏、取締組、番人等を邏卒(らそつ)と改称し、同年六月の地方官会議で地方警察の問題が論じられて、同年一〇月二四日に邏卒は全国的に巡査と改称された。このとき定められた巡査の等級と月俸は上のとおりである。(『明治警察史研究』から)
 
官 等 月 俸
一等巡査等外一等七円
二等巡査〃 二等六円
三等巡査〃 三等五円
四等巡査〃 四等四円

 
 明冶一〇年(一八七七)一月二六日、内務省は出張所を警察署、屯所を分署と改称する旨定めたことにより、千葉県では、同年二月八日この制度にしたがい、各設置する地名を上につけて呼称することに定めた。明治一〇年当時の千葉県の警察設置の数は、警察署が一三、分署が三一であった。
 
    北条警察署 ○本納警察署佐倉警察署 佐原警察署
    加知山分署  ○茂原分署 成田分署  多古分署
    前原警察署  ○東金分署松戸警察署小見川分署
   北条朝夷分署  ○一宮分署 流山分署  万才分署
    佐貫警察署   長南分署 野田分署 千葉警察署
   木更津警察署   今泉分署 関宿分署  船橋分署
    久留里分署  松尾警察署木下警察署 大和田分署
   大多喜警察署   芝山分署 船尾分署  行徳分署
    勝浦分署 八日市場警察署 白井分署  八幡分署
     松野分署   銚子分署我孫子分署  鶴舞分署
   中魚落郷分署   成田分署 市川分署
     苅谷分署          (○印=長生郡)