日本の家屋は耐火性のとぼしい木材、タケ、カヤ、わらなどをおもな材料としてきたので、戦火、地震、落雷などによる火災だけでなく、ちょっとした火の不始末からも火事をひきおこすことが多かった。徳川時代以前には京都に大火が多く、その後江戸には「江戸の花」といはれるほど大火災が多かった。火に弱い家屋の集まっていた当時の都市に大火が多かったのは当然であるといえようが、その中で防火に対する公共的対策が充分に発達しなかったことも注目に値するようである。もっとも江戸の市井ではこの火災不安のなかで塗り屋造り、土蔵造り、腰がわら張りなどの耐火建築がしだいに普及してきたが、それらは一部の上層階級に用いられるのみで、周囲には依然として木造の無防火といってよい長屋などが密集していた。江戸では明暦元年(一六五五)から五、六年間は連年大火がひんぱつし、なかでも明暦三年一月一八日におこった火事(本郷丸山の本妙寺から出火)は死者一〇万八千余人をだし、江戸城本丸、二の丸をも焼失してしまう江戸第一の火災であった。これは世に「振袖(ふりそで)火事」または「丸山火事」といわれ、これにより江戸開府当時の桃山式を受けついだ豪壮な書院造りの武家屋敷は焼失し、以後大名の屋敷も白木造りの地味なものに一変し、一般民家もまたこういう武家屋敷を基準とするわくの中におかれてきた。
明治のランプ時代にはいり、引火の早いふなれな石油を使用するランプの普及は失火による火災を一段と多くしたようで、なかでも明治一三年一二月三〇日から翌年二月二一日までに神田で三回、四谷で一回の火災をひきおこし、その焼失家屋約二万七五〇〇戸に及んだなどは、この時代における東京の火災の特筆すべきものである。このランプ時代には大阪天満、函館などの大火も知られているが、その他の地方都市でも、しばしば大火災がおこった。しかし、ランプがすでに過去のものとなった昭和にはいってからも、なお函館、青森、大館、新潟、熱海、静岡、飯田などの諸都市で大火がおこった。最近ようやく防火建築の普及や消防設備の進歩によって、かつてのような大火災は減少しているが、その不安がいちじるしく減じたとはいえない。
以上の大火の時季をみると、季節のかわりめにおける強い季節風や台風襲来時におけるフェーン現象などの天候と深い関係があったようであるが、大火をひきおこす火は悪霊、死霊などのたたりによる悪火であると考えたり、火の神荒神の怒りであるとするような民間の考え方が長いあいだつづき、成田、秋葉、愛宕などの神仏に火難よけを祈願する講中も広く結成されてきた。しかし一方では東京下町暮らしの一生のうちで五度の火災にあったという例もあり、そこには火事に少しもめげない気軽な住居をかまえた人々のいたことや、火災後の活発の土建事業をむしろ歓迎するような土建関係の職人が、とくに東京には多く集まっていたことなどが、火災ひんぱつの一つの条件をなしていたかと思はせられる。
日本木造という家屋構造が火に無力であり、そのうえ季節的な強風が吹き、消防施設も不完全であったから、日本は古来しばしば大火に見舞われ、世界有数の火災国となっている。古代の人家が密集していない時代には、類焼の危険も少なかったと思はれるが、都市の発達につれて大火の発生を招いている。平安時代には陰陽道(おんようどう)の影響で、火事や地震は鬼気御霊のたたりと信ぜられ、そのわざわいをはらうために、しばしば改元がおこなわれた。一一七七年(治承元)の大火では、皇居をはじめ京都の大半を焼き、この災禍のため元号が安元から治承と改められている。また戦乱には攻防の手段として、よく火が放たれた。応仁(おうにん)の乱(一四六七~七七)の兵火は京都市街を焼き尽している。