明治二三年二月二八日、徳増大川徳太郎外十数軒、大川家は新築落成したばかりの五間に九間の母家であり隣接する風上(かざかみ)の小屋から出火した不審火であった。同夜隣村に二ケ所火災があり非常連は帰って間も無い時、厳寒の為めポンプもホースも凍って居たとの事、折からの西風にあおられ、母家を焼いた火の子は遠く風下まで飛び散り、醤油醸造業屋号四方店(よもてん)(宍倉)の大きな母屋、醤油庫を始め上宿(かみじゅく)の目抜き通り大部分を類焼し下宿(しもじく)石井磯吉宅で止った。当時徳増には大工棟梁平川柳太郎、同宍倉已太郎、同佐川和吉、左官親方石和田長治郎、屋根職同石井喜十郎、木挽同鶴岡喜太郎、土方同石井磯吉等の錚々たる職人が非常連の中堅であったので一致協力懸命に消火に努め石井磯吉の家を破壊消防に依り延焼を喰い止めた。特に平川歓次(元名主間口十一間、奥行六間)、平川長松宅の屋根に登り火の子を払ひ両家以東の類焼を防いだのは前記職工達の勇敢なる離れ業の力与って大であって、郷党等しく其の殊勲の功に感激した、同時に近隣から逸早く駈けつけた多くの非常連衆に依る応援の賜として感謝した。