二 燐寸からライターへ 2 From matches to lighters

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 ここで長い間、しらずしらず恩恵をうけてきた発火用具の進歩の跡を辿ってみよう。
 昔から、我々が火を得る方法は、決して簡単なものではなかった。太陽の光をレンズで集めたり、火きり杵、火きり臼のように摩擦したり、火打石のように打撃したりした。火種ができても、それを受けて火をとる材料がまた工夫されねばならない。幕末の頃から、付木というものが用いられ便利になった。郷土長柄村にも「付木屋」があって、長い間付木を製造していた。火を移すには誠に便利なものだった。
 ところが、その頃、ヨーロッパから、マッチという火付け道具が輸入された。外国人が、靴の底でマッチをするのをみて、日本人は「爪から火が出ている」と大騒ぎだったというエピソードが残っている。
 明治初年、輸入品が氾濫する中で「マッチ位は日本で造って、貨幣流出を防ごう」と、フランス帰りの技師清水誠が、政府からの補助金を得て、新燧社というマッチ会社を造り、マッチの量産を始めたのが明治九年(一八七六)のことで値段は一個三厘で当初から庶民の道具であった。(7)このマッチは、薬品をまさつして発火させ付け木代りの細い棒に火をうつす道具で、最初の頃は、棒の頭に〇・一グラムが致死量という黄燐を用いた「摩擦マッチ」が造られたが、明治後年から大正にかけ、棒の頭に塩素酸カリ、摩擦面に赤リンを使った現在の「安全マッチ」が造られるようになった。日本のマッチ工業は、日露戦争後から大正初年が最盛期で、低賃金と運賃安を利用し、スエーデン、アメリカと並んで世界の三大マッチ輸出国になった。(8)明治三六年(一九〇三)本納町(現茂原市本納)の菊川武助が菊栄社というマッチ製造工場を興したのもこの頃で、(9)生活必需品として重要性をもっていたので、次第に隆盛となり、上総燐寸株式会社として発展した。明治から大正時代の人々には、大箱の桃印や虎印マッチがなつかしく思い出されよう。だが、戦後になると、マッチは、大部分が広告用となり、ライターや自動灯火器が幅をきかせる時代となる。
 ライターは、石を摩擦して火を起し、液化ガスに点火して焔を大きくする道具で、昭和二三年頃、進駐軍が持込んだものであろう。一時ドイツ製の高価な輸入ものが多かったが、昭和三〇年代から国産品が出まわり、質のよいガスライターが出現、今は、使い捨ての百円ライターにその地位を奪われつつある。一方自動点火器も、さまざまな道具に取付けられ、マッチやライターを使う必要がなくなってきた。そしてたばこを吸う人の必需品ぐらいといったところであろう。私達の家庭で火を得る道具は、益々多様化され、安全で便利なものに変ってきた。