二 追分・皿木部落の水道 2 Water supply for Oiwake & Saraki villages

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 追分部落は、開拓以来生活用水に乏しかったので明治八年、上落井地先に共同井戸を設け、この井戸から人の肩で各家々の台所に水を運んだのであるが、その労苦は、今の世の人には到底理解できるものでない。この部落の人々は長い歳月、生活用水の対策に心をなやませてきたが、たまたま、昭和一九年二月、吉本貞一、月岡栄作、小泉三蔵、近藤留五郎の諸氏が発起人となり、部落民と相謀り、水道施設の布設計画を樹てた。昭和一九年九月に着工したが、このときは大平洋戦争の最中であり、資材の調達も思うにまかせず、その他幾多の悪条件が重なり遅々として工事が進まなかったが、戦争が終結し、やや条件も好転したため部落民の一致協力により昭和二一年一〇月遂に工事を完工せしめるにいたった。
 皿木部落も水問題は、共同井戸を大勢で使用するということで追分部落と全く同じ状態であった。昭和二八年頃にいたり皿木部落の水道に関する構想が現実化し、新規水道計画を実施する段階になった。
 処で前述の追分部落の水道は私的なものであって完全ではなく、衛生的見地から又水量の上からも早晩改善しなければならない状態にあったので、両部落はこれを好機として個々の計画を統合して新規水道計画を推進することに両者の意見が一致した。そこで村当局とも協議し関係官庁に申請し、追分、皿木地域簡易水道事業計画は県から認可された。これにより昭和二九年九月工事を着工し、両部落の一致協力、茂原市水道部の技術的後援を得るなどで、総工事費一六〇万円をもって昭和三〇年四月完工した。
 一方茂原市は、昭和二七年四月一日隣接六町村との合併を了し着実に市勢を整へつつ水道経営も長期的展望にたった諸計画を立案実施するようになった。
 昭和三三年(一九五八)一〇月茂原市は、山之郷、皿木地域に第三期拡張計画をすすめることになり、地元山之郷、皿木部落、及び関係者との協議も整い、長柄町もこれを承認した。皿木部落はその代償として茂原市の上水を一定条件のもとに供給を受けることになった。一方、昭和三〇年に完工した追分、皿木簡易水道は水源の関係から抜本的改善の必要性にせまられていたときであるので、皿木、追分両部落は協力して、茂原上水を簡易水道の配水池に導入する工事を町の協力を得て実施した。そして昭和三六年にいたり茂原市第三期工事も完工し更に前進した上水の受給方途が確立したので昭和三六年(一九六一)三月さきの簡易水道を布設した際の起債の未償遷金一、五三四、三一〇円を操上げ償還し両部落とも茂原市上水道に加入した。
 

(追分・皿木水道完成記念碑)