大正一二年(一九二三)九月一日、関東一帯を襲った大地震は、一瞬にして、すべての交通機関をストップさせ、有線による電信、電話の回線は、ことごとく切断されて、その機能は停止した。この時威力を発揮したのは、無線による通信であった。その日横浜港には、十数隻の船舶が碇泊していた。この災害を知ると、ただちに無線電信を発信しはじめた。「横浜は、全滅、津波おこり、家屋流失。各所に火災起る。東京の被害は不明なるも、ほぼ同様と信ぜられる。……」この発信を銚子無線局が傍受、潮岬局との連絡をはかり、そこから大阪電信局へ至急電が届いた。「水、食糧なし、至急救援たのむ」これも銚子から潮岬局を経て大阪へ届けられた。
こうした大災害にあたって、通信というものが、いかに重要であるかを痛感するとともに、無線による通信の大切さが改めて認識されたのである。
ところで、電信が伝えるものは符号である。これに対し人間の声や音色を伝えるものは電話である。そこで、無線電信の次には、無線電話の実験が行なわれ、明治四五年(一九一二)には、独得の無線電話が発明されている。こうして、無線電話が発達してくると、通信というものの概念が変ってきた。有線の通信は、個と個を結ぶものであるが、電波による通信は、発信者は個であっても、受信者は、数に限りがない。そこで、これを利用することによって、開発されたのがラヂオである。(『郵政百年の歩み』による)