この長柄町所在の寺院神社にはいくつかの縁起が現存する。現在まで知ることの出来た七種の縁起には解説を付して長柄町史に翻刻したが、これらのうちには文学的興趣にみちた一つの文学作品とも考えられるものがあり、その末尾に筆者(おそらくは縁起文の作者であろうか)の名が記されており、広義に考えれば郷土文芸としてあげることが出来よう。収載せられた順序によってそれを考えてみる。
(1) 不動明王尊縁起。この作者は末尾にあるごとく、飯尾寺第十三世の日性が、宝暦五年(一七五五)に執筆したことが判明する。
(2) 延命六地蔵縁起。
(3) 長柄山胎蔵寺仮名縁起略。この二者は内容はほぼ同じであるが、前者は漢文で記され、それを訓み下しにしてさらに文学的に潤色したものが後者である。末尾に「眼蔵寺現住比丘」とあってその個人名は明らかでないが、胎蔵寺の旧名が眼蔵寺と改まったのはほぼ宝永年間(一七〇四―一七一一)と推測せられるので、判りやすく改作したのはその時の住職の筆であろう。前者は一見古態ではあるが、室町時代末期をさかのぼり得ないと思われる。
(4) 槻木谷光堂地蔵菩薩縁起。天明三年(一七八三)に曹洞宗の僧である端竜の作文で、市原郡西野村の七十歳の画師が書いたという奥書がある。残念ながらこの作者の伝を明らかとしがたいが、おそらくは地蔵堂の再建にあたって依頼せられたであろうが、長柄町関係の僧ではなく、文筆の名の高かったために依頼を受けたのではなかろうか。
(5) 小山阿弥陀縁起。筆者の名は明らかでないが、職業的作家の作文ではなく、村役などの文章の上手な人のまとめたものと推測される。
(6) 笠森寺縁起。ふつうには寛治二年(一〇八八)の楠光院五世大僧都覚海の奥書のある簡単な木版の縁起が流布しているが、これは宝徳四年(一四五二)の作を、文亀三年(一五〇三)に天台沙門行公が増補して謹書したという奥書がある。文学的潤色にすぐれ、後述するように近世の笠森寺縁起文学の原流をつくるものとして注目すべきであろう。笠森寺は現在は行政的には長南町に所属しているが、この堂の発願者である箕作り翁の娘は、桜谷の出身である点からこの縁起物語は、古くから伝承せられこの長柄に関する唯一の文学的作品として見逃すことの出来ぬものといわねばならない。
(7) 羽黒山大権現略縁起。文学作品としては中央の文献に記載せられなかったとはいえ、この長柄の地に古くから伝承せられ、口碑として語られて来たヤマトタケル伝説を文献として記述した現存唯一のもの。また前掲の(2)(3)と共に平秀胤伝説の原流をなすものとして注視すべきものであろう。奥書の寛正元年(一四六〇)武ケ峰神社神主の黒須玄蕃允平信胤とあるのは全面的に信頼は出来ぬとしても、この神社の祠官の筆が原型で、その後の補筆と考うべきであろう。
以上展望したごとくに、一般に寺院、神社の縁起は根拠のない伝説として無視せられているが、郷土の文芸のあとを辿る時は、その土地の人、もしくは在住していた人の執筆した作品として古代、中世の郷土の人たちの心情を豊かに培って来た作品群として新しい視点から今後は、高く評価すべきではなかろうか。