山東京伝の笠森観音利生記

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江戸中期の洒落(しゃれ)本・黄表紙・読本・滑稽本・合巻(ごうかん)など多方面に活躍した作家山東京伝は江戸深川木場町の質屋の長男として宝暦一一年(一七六一)生まれ、一八歳の時始めて黒表紙の作を発表したが、以後流行作家としてもてはやされ洒落本の代表作者として文学史上逸することの出来ない作家である。寛政の改革で遊里を題材にした作品が発売禁止となり手錠五十日の刑を受けて以後、教訓的な読本などに力を注ぎ、また寛政五年(一七九三)の春からは銀座で煙草入れの店を開き、煙草入れと煙管(きせる)のデザインに才能を発揮し商人としても成功した。滝沢馬琴は最初、彼の弟子となったが、終世その上に立とうとして焦(あせ)り、その悪評を書きのこしているが、世評は京伝の方が高く、文化一三年九月、死の六時間前まで創作の筆を止めなかったという。彼の晩年の作品に笠森観音の縁起にヒントを得た『笠森娘錦笈摺(おいづり)』がある。その最初に「小引」として自らその内容を次の如く要約している。
 
  這稗史の大路をいはんに、上総国の孝女袖垣笠森寺の観音を信じて幸福を得たる物語。於花半七復讐の伝、籠釣瓶刀の来由、稲村片瀬両士の怨魂雀と化して八剣を餓しめたる事、雀躍の起原、上総国朝立山の麓に住し総次坊主、弁才天建立の談、三ツのそ文字の縁故等を集め、笠森寺の本縁起、箕作の娘茂利子、朱雀帝の后妃となりしことを巻首にしるして一部の稗説とす。
                         文化五年戊辰六月稿了
                         同 六年己巳正月発兌  山東京伝識印

 
 また最初に笠森寺縁起をあげているが、内容は本縁起とは大筋においては一致しているが、人名などは大いに異なり、長柄郡桜井の里、朝立山の麓、獅子が背という所に、箕を作りて生活する貧しき者あり、子を五人もち男子二人女子三人あり。末の娘を於茂利(おもり)という。として観音信仰のおかげで都に上り、后の位についたという周知の霊験談を近世風に書きなおしてあげている。この京伝作の作品はその後日霊験談ともいうべきものである。
 
  今は昔暦応の頃とかや、上総長柄郡桜井の里朝立山の麓獅子が背という所に、獅子が背総次といふ郷士ありけり。歳は四十に適ぎ妻はさきだちてみまかり、一子箕四郎といふ今年廿歳になり末の娘染木といふは今年六歳になりぬうせたる妻箕四郎を生みて暫らく子なく、此の染木を生みて程なくみまかりける故、殊更不憫に思い男の手塩にかけ、さま/\艱難して育てけるが、歳に似合はぬ賢き生れつきなれば、末頼母しく思はれけり、それに引かへ悴箕四郎は殊の外身持ち放埓にて、下総国手古奈といふ宿のあやめといふ娼女に馴染め、親の目を忍びては通ひける故、総次たび/\異見すれども、兎角もちゐず、隣国なれども手古奈までは程遠きをいとはず、夢うつつもわずかして通ひけり。
 
 以上が書き出しの一文であるが、時代を鎌倉時代としてお家騒動や盗賊の話、名剣や孝女の話さらには敵討など興味本位の話をつぎつぎと点出して、とうていその大筋をとりきれぬほどの変転を記した後に、笠森観音の御利益として、孝女の袖垣が故郷へ錦のおひずりを着て、御礼参りに参詣をしたというのが題名の由来である。坂東三十三観音巡礼の風が盛んとなり、笠森観音の名が広く知られるようになった時期の創作だが、もちろん京伝はこの地を知らず、空想の上にペンを走らせたものであるが、桜谷の出身者を主人公としたところに興味を惹かれるものがあろう。なおこの作品は『房総文庫』(昭和七年刊・復刊昭和四八年崙書房刊)の第四冊に翻刻せられている。