十返舎一九の『金草鞋(かねのわらじ)』

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『東海道膝栗毛』の作者として文学史上にも有名な十返舎(じっぺんしゃ)一九は本名重田貞一(しげたさだかづ)、八王子の千人同心の家に明和二年(一七六五)生まれたが長じて大阪に下り、浄瑠璃作者となり、寛政六年(一七九一)江戸に出て、書肆蔦屋重三郎方に寄宿、黄表紙『心学時計草』を手はじめに黄表紙、読本などだけでも三六〇種、ほかに人情本、咄本、滑稽本、さらに往来案文(手紙の模範文集)だけでも六〇種以上、狂歌、川柳をよくし書も画も共に巧みで、後に馬琴が「浮世第一の天晴(あっぱ)れの戯作者、著作料で生計(くらし)をたてた最初の人物」と批評したほどの多作者である。特に彼の文名を高めたのは弥次郎兵衛・喜多八を主人公とし東海道を下り、伊勢参宮から奈良を経て大阪に至り、続いて金毘羅参詣から安芸(あき)の宮嶋詣で、帰途は木曽街道から善光寺を経て江戸に帰る『道中膝栗毛』全二〇編四三冊の刊行である。享和二年(一八〇二)から文政五年(一八二二)に至る間、一冊を刊行するごとに世評が高く、二人の江戸っ子の軽薄さと、彼等のもたらす卑俗な笑いが、読者大衆の喝采(かっさい)を博し、狂言や小咄など読者の知悉した話材をたくみにとりこみ、地方にまで販路が拡大し、この模倣作が続出し、歌舞伎にも仕組まれた。一九は、この作品の評判のよい事に注目した書店からの勧めでさらに旅行の範囲をひろげて『方言修業金草鞋』を文化一〇年(一八一一)から天保九年(一八三四)にかけて刊行している。この主人公は奥州生まれの二人づれだが、その失敗談の中に各地の方言をとり入れ、名所案内記風に記している。この第十七篇では房総方面を旅行しており、その部分のみを原本の影印と共に、『十返舎一九の房総道中記』として鶴岡節雄氏が校注解説を付して刊行しているので、私たちは容易にこの房総に関する紀行を閲覧出来るようになった(昭和五四年三月千秋社刊)。十返舎一九はほんとうにここに採り上げた各地を旅行したかどうかは実は疑問で、自らが文中で土地不案内を告白し、他人の記録・談話、道中記などを参考としたことを述べている土地としては、東北地方の仙台、羽黒山、秩父方面および伊豆地方があり、また旅行の実否の不確実なものに北陸や中国、九州の長崎方面がある。さてこの房総道中記であるが、下総方面の、鹿島、鹿取地方は『旅眼石(たびすずり)』(享和二年板)を見れば明らかに実地を知っていたことが判るが、この上総安房方面はどうであろうか。尾崎久弥氏は「江戸より近く、明らかでないが、実感あっての事であろう」(「十返舎一九の旅程について」昭和三年刊『江戸軟文学考異』所収)と述べており、前掲の鶴岡節雄氏は明言は避けているが、実地に足を運んだ旅人以外には知り得ぬ描写のあることを指摘している。もし、本当に一九がこの地に足跡をのこしているならば貴重だが、その足跡を辿って見た私は結論のみを述べるならば、実際にはこの地に来らず、案内記と、実際に旅行した人からの見聞による記述と判断したい。この房総の部分の成立年時を鶴岡節雄氏は、一応文政十年、作者の一九が六十三歳の時と推測しているが、従うべきであろう。行徳から出発し、船橋・五井・姉ケ崎・金谷から保田・勝山・那古・加茂・和田・小湊天津・松野・大滝(大多喜)長南・笠森・茂原・わしのす・六地蔵・潤井戸を経て江戸に帰っている。今ここに「六地蔵」のところを掲げておく。
 
    六地蔵(ろくぢぞう)
  六地蔵、この所より小西(こにし)の妙香(めうこう)山正法(せうほう)寺とゆく道あり。これは法華宗の談所(だんじょ)にて、にちこく上人開基の所なり。こゝよりゑんまどうへは二里あまり。このところにて雨ふり出したるに、
  狂六地蔵宝珠(ほうしゅ)の玉(たま)にひよりかと見れば錫杖(しゃくじゃう)ふりいだす雨(あめ)
 「むかうからくる女が、なんだかわしの顔ばかり無性(むせう)に見ながらくるが、わしにほれでもしたと見へる。こゝへきたらきいて見やう。もし/\女中さん、おまへわしの顔ばかり見てきなさったが、わしになんぞ用でもござりますかへ
 おんな「なにさ、ほかに用はござりませぬが、わたしは此間此(この)すぢで護摩灰(ごまのはい)とやらにつかれて、すこしのものをとられましたが、その護摩灰(ごまのはい)におまへがあんまりよくにてゐなさるから、ひょっとおもって、それで見たのでござりますが、よく/\みればおまへよりか護摩灰がよっほどよい男でござりました。あのやうな男なら、わたしはとられてもおしくはござりませぬから、どうぞもふ一度とられたいものでござります
 「そんなら、その護摩灰のかはりに、わしがとってあげやうじゃァござりませぬか
 「さやうなら、おまへにとっておもらい申たいものがひとつござります。わしのこの目のうへにある瘤(こぶ)がじゃまになってなりませぬが、どふぞこれをとって下さりませ」
 「イヤそんなら、瘤(こぶ)もとらずはちもとらずにいたしませふ」
 「雨ふって地(ぢ)かたまるといふから、この雨でわしの疣痔(いぼぢ)がうせればよい」
 「わしは目のうへの瘤(こぶ)よりもなにもいらぬ。はやく家へかへってねるがよい。ねてからなにをとろうとまゝなことだ」

 

六地蔵
(十返舎一九「房総道中記」所載)