江戸後期の読本(よみほん)・草双紙の代表的な作者、滝沢馬琴は明和四年(一七六七)江戸の深川で、旗本の用人をしていた父のもとに産れた。幼時から記憶力抜群で母の物語る浄瑠璃や草双紙の筋をそらんじて周囲を驚かしたというが、九歳で父に死別後、十四歳で主家を出で、旗本の家にも奉公したが長続きせず、医師を志して功ならず、すべてに失敗した結果、幼時よりの乱読して得た雑学を活用して戯作者となろうとし山東京伝(前出)の門に入った。以後、嘉永元年(一八四八)八二歳をもって歿するまで、著作生活およそ六〇年にわたり、黄表紙・合巻(ごうかん)読本を中心に俳諧・洒落(しゃれ)本滑稽(こっけい)本・随筆など多方面に活躍したが、特に代表作として文学史上にも特筆せられているのは『南総里見八犬伝』(全九八巻一〇六冊)で、文化一一年に初篇を出版して以後、天保一三年まで二八年間の長期にわたり漸く完結した。特に晩年失明して、嫁のおみちに代筆させたが、一字ごとに文字を教え、仮名づかいを口授した馬琴の苦心と、嫁のおみちの献身的な努力は有名である。日本における最大の伝奇小説で仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八つの徳目を象徴する八人の犬士が運命の糸にあやつられながら里見家に仕え、よく外敵を防いで功名を坂東にとどろかすという波瀾万丈の物語で、構想の雄大と華麗さは多くの読者の心を魅了した。ところでこの長篇小説に傍役(わきやく)として登場する人物に、上総榎本(えもと)の城主、千代丸図書助(づしょのすけ)豊俊がいる。馬琴は上総の有力な城として長南椎津の両城とならべて榎本城をあげ、千代丸豊俊は部下五・六百を率いて活躍し、一度は逆賊素藤の味方をして里見氏の討伐を受けて、虜囚の身となったが、許されて里見方の部将として敵方の扇谷定正との海戦に功労をあげている。馬琴は勧善懲悪の立場から執筆しており、悪人にはその名からして悪逆無道を連想せしめる名称を付し、その容貌などもいかにも悪人らしく描写しているが、豊俊に対しては「この人年齢は三十許、面(おもて)の色白く、鼻梁(はなばしら)徹りて、骨逞しく、坐身(いたけ)高かり。月額(さかやき)の迹、六七分延黒みたれども、囹圄(れいご)に久しきやせもなく、さばかりのおとろへなし。」(第九輯・巻三四)とのべ、さらに「その瞳凉やかにして誠心気色に現わる」とも記している。ところでこの人物は実在であろうか。
滝沢馬琴肖像
(「里見八犬伝」の巻末所載)
府馬清氏が『房総の古城址めぐり』上巻(昭和五二年有峰書店刊)には
「榎本城は明城ともいわれ、城址は長柄町榎本字本合の台城にある。土塁空濠の一部が残っている。戦国時代、里見氏の属将千代丸榎本之介豊俊の居城だったという」(九三頁)
とある。是は明治十年ごろ、味庄の励業学舎の教官でもあったという安川柳渓が『上総国志』に記述したのに拠ったのであろうが、近世以前の文献には全く見えていない姓名である。もちろん榎本城の存在は古く平安朝末期の永万元年(一一六五)ごろまでさかのぼり得るのであって、この城主の菩提寺本尊である阿弥陀如来坐像は同所の長栄寺に安置せられている事はすでに『長柄町史』(九七頁)で述べたところであるが、この城主を千代丸豊俊とするのは、馬琴の創作であるらしい。『八犬伝』執筆にあたっては馬琴は房総の地には赴かず、もっぱら地誌、戦記の類を参考にしたらしく、特に『房総志料』(中村国香)を使用したことは著作随筆のなかに明記しており、また『八犬伝』の挿話にも明らかにその痕跡を数え上げることが出来る。その『房総志料』には「榎本城。城主の姓名失す。里見氏に属す」のみ記している。『八犬伝』に登場する人物は数十名にのぼるが、すべて架空の人物で、歴史上の実在の人物にまぎらわしい姓名をつけているが、すべて彼の創作である。榎本城が長南城に並ぶ有力なものとして描いているのも実状にそぐわない。これはよくあることであるが『里見八犬伝』が愛読、流布されると共に文学に現われた架空の人物が実在化されてゆくことを語る一例であって、この点私たちの興味を惹くものがあろう。ともあれこの長柄町の一古城の名が、この有名な作品に登場していることに注目したい。