江戸後期の人情本の代表的作者である為永春水は寛政二年(一七九〇)に生まれ、天保一四年(一八四三)に天保改革のため執筆不能となり失意のうちに没したが、彼の編削であることが記された一写本が、桜谷の仲村多治見家蔵書のうちから見出された事は大きな喜びであった。くわしくは『為永春水編削上総国長柄郡泉詣御道之記』と題されたもので、江戸から出発し、現在の岬町の和泉にある飯綱権現への紀行であるが、その経路として長柄山から刑部鴇谷と旧江戸街道をたどり笠森寺に参詣して一の宮より和泉に至る往復で、特に貴重なのはこの長柄町に関する部分が特にくわしい点であった。さらにその後、飯縄寺所蔵の大型挿画入りの写本を拝見するとその奥書に「南総長柄郡鴇谷住 磯野真常記」とあり、さらに東都為永春水編削。門人蕙積義路謹書。とあったのである。この書の全貌については『長柄町史』の研究篇に町史委員の仲村多治見氏が本文と共にくわしく述べているので、いまここでは述べないが、この長柄の地に文学を愛好し、はるか江戸の当時の流行作家である為永春水に師事したものがあったこと、およびこの一文は鴇谷在住の人が執筆したものであることを語っていて、当時の長柄の地の文化水準を示すとともに、かつ当時の鴇谷村を通る江戸―長柄山―笠森道の実態を描き、また帰路の房総仲往還道の実地を語っている点、貴重な資料である。事実としては為永春水はこの門下生たちの招きに応じこの地に来遊はしなかったのであろうが、『為永春水の研究』の著者神保五弥教授(早大)の御教示によれば、春水の門下を名乗り多くの共作者が存在し、かつ門下となることを希望したものが多いなかにも、この上総の門生に関する記述は未見であるとの事である。なおこの磯野真常(まさつね)について、現在コウヤ(紺屋)の屋号をもつ磯野真常(当主)氏よりの御教示によってその年齢を確認出来たので報告しておきたい。すなわち同家の文書のなかに文化四年(一八〇七)七月にその四二歳の厄年に際し、東都深川相川町近江屋宗兵衛から曼荼羅を贈られたとの記載がある。すなわち逆算すると明和三年(一七六六)の生誕であるが、残念なことに没年は不明である。この近江屋と磯野家の関係は不明だが、この親しいものが深川に居住していたということは、おそらくは江戸との交流が想像され、為永春水を知ったのもこの縁によるものではなかろうか。なお同家には磯野真常書と署名のある「牛頭天王宮」の幟(のぼり)が現存する。伝承ではその妻が賢夫人でかつ能筆、この幟も事実はその妻女の筆というが、その真偽は不明である。