「(前略)浜野より浜通りは帰路に通行の積(つもり)。陸路を直に上総に入。草刈村・草刈の池潤井戸の原、曠々として東南は山々、西は遙に海をみる也。小西檀林・野呂妙興寺茂原妙高寺など程近し。長柄山より峠を越、長柄の城山・長南の駅。(下略)」
しかしこの書の末尾に「右任二御尋一、往返之順道記し畢んぬ」とある点より見れば、さきの春水の紀行のごとく、蘭山自らの足を運んでの記録ではないと考えられる。
その他この地を通りすぎて行った著名な人たちのうち、いま知り得るものに寛政三奇人の一人である高山彦九郎がいる。彼は現在の太田市細谷の郷士の家に延享四年(一七四七)生まれ、京に学んだが憂国の情の強い熱血漢で四国を除いてほとんど全国の有志を訪ね、史蹟をさぐり旅行してその日記をのこしている。その記載は景観描写、里数方位などを詳記し、交友人物のことを細かく記し、名所及び伝説地をあらかじめ知っている上に、現地の採集をつけ加え、風俗習慣など貴重な実態を伝える点まことにすぐれている。寛政六年(一七九三)九州の久留米において知人宅にて自殺した。彼の晩年に近い寛政二年(一七九〇)六月江戸を出発して房総地方をめぐり、北海道にわたらんとして津軽半島の先端宅鉄まで赴いたが渡道することが出来ず、帰途仙台の林子平宅に滞在、京都で天皇ならびに上皇が新築の御所に移られる儀式を拝観するため、昼夜兼行で上京したが、一一月二二日に還幸されて、彦九郎が京に到着したのは三〇日であった。彼は三〇日の夜半、大津を出発して白川橋で身を浄め、礼服に改めて京に入り、三条大橋の所からはるかに御所を拝して、宝祚長久を祈った話は有名で、その姿は銅像にもなっている。この旅行が『北行日記』と名づけられているが、それを見ると、六月七日に江戸を出発、木更津まで船、鋸山に登り、館山・千倉・天津・小湊・勝浦・長者町・一ノ宮・東浪見・大東岬・清水寺・一ノ宮に至り、二二日に給田・長南を経て笠森寺に詣らんとするも宿泊の便なくたまたま行き会った内田村奥野の清左衛門宅に宿り、翌二三日に笠森観音を拝し「山を下ること壱丁斗り、小山の間を行く。笠森村を過ぎ、高山村を経る。爰は長柄郡也。坂を越えて行く。棚毛村是れより埴生郡也。岩川村へ懸る。」と記している。残念ながら記述はこれだけだが、この日は腰当村を経て本納町に宿泊している。この両日の記載に荻生徂来に関する記述が散見し、徂来の伝記に関する興味ある資料と考えるがいまここでは省略する。ともあれこの歴史上にも特色ある人物の足跡がこの長柄の一角を通りすぎており、その記載が甚だ簡単であることは残念だが、私の心を惹くものがある。なお北方の探険家の先覚の一人、村上島之丞は明らかにこの地を通過したばかりでなく、測量を行っている。彼は宝暦一〇年(一七六〇)の伊勢に生れ、老中であった松平定信に見出され、のち寛政一〇年(一七九八)近藤重蔵などと、北海道にわたり、国後・エトロフ島を探険、アイヌの生態をすぐれた画筆と記録によって詳細にのこしていることで著名な人物である。文化元年(一八〇八)江戸の仮寓で流行病により歿しているが、彼は寛政五年(一七九三)松平定信の命により上総国図を実測作製した。その際この上総の社寺の縁起を採録して『上総寺社縁記』を編修、その写本である旧内閣文庫本がいま国立公文書館に所蔵せられている。その奥書に「右此一巻は秦檍麻呂集録する所なり」とあり、なかに各地間の里数などが注記せられているところがある。この秦檍麻呂(はたのあわきまる)とあるのはすなわち村上島之丞の雅号で、長柄山の『胎蔵寺縁起』は彼がこの測図の際、現地で得て写しとめてくれた為に、幸に私たちは知ることが出来たのである。なおその測図は現在、市原市高滝神社所蔵の一幅がそれの写しではないかと私は推測しているが確証をいまだ得ない。
なお文学者あるいは著名な人物とは言い難いのであるが、この地を通りすぎた好学の医師の記録が存在する。これは町史編纂顧問であった故江沢半(号半葉)氏の御教示であるが、ここで厚く謝意を表して紹介しておきたい。すなわち夷隅郡国吉町(現夷隅町)の今関に安永三年(一七七四)生まれた田丸健良である。(『千葉県志』誤りて健長と誌し、講談社刊『日本人名大事典』もこの誤りを踏襲している)彼は幼少より学問を好み、十四歳で父を、二二歳で母をうしない、死の悲哀を痛切に感じ、医学を修めて人の不幸を救わんと志し江戸に出でて医学を学び、仁術を旨として貧者を救うを無上の楽しみとし、四五歳の時江戸の寛永寺に登り、仏道を修め、以後僧衣を着して教化、医療につとめたという。彼は郷里の近かった中村国香の著『房総志料』の増補を志し、新らたに採集して『続篇』を完成した。ほかに著書多数であった。弘化三年(一八四六)七二歳をもって歿したが、その後、多くは虫害のおかすところとなったという。その『江戸道中日記』を閲覧せられた江沢氏が、幸にその長柄に関するものを抄録して報告して下さった。ここにそれを紹介しておきたい。
○文政一三年(一八三〇)年四月一五日
針ヶ谷より長柄山に登る。
卯の花に朝日輝く長柄山
○天保四年(一八三三)七月
針ヶ谷より長柄山に登る。
卯の花に朝日輝く長柄山
○天保四年(一八三三)七月
笠森仁王門より北に向ひ行事五六町にして大庭村に至る。此処山間田地沃壌人家も富める様子夫より大津倉村平兵術といふ豪家あり。大久保讃岐守知行所とあり。半里余も行て刑部に至る。右への郷名今存す。大家も多見ゆ。茶店酒店等もあり、むかふより四十余りの男来りてあなたはじゅせんじさまにてはなきやと申、さにはあらすと答、右の方山下に寺あり寿泉寺と申よし。此所は篠綱村なるべし、聞洩せり。此処に碑あり、向て右の方六地蔵道、左の方長柄山千葉道とあり。左の方坂を登る、針ヶ谷の坂より難所なり。登りつめて少し行、下らんとする右の方碑あり。西の方八幡道大道なり、此の小径千葉ながら山道有、比道を下るに少し道に迷ひたる心地しけるが程なく往来の道に出。長柄山茶店に休、馬を仮らんと思ひけれとも日暮なれは賃も高からんと杖にすがりそろ/\たどり(虫)皿木村は長柄郡犬成新田は市原郡此所二村とも井なし。谷の水を汲て荷ひ登るなり。暑中などは水も多く遣ふなれば難儀なるべし。犬成にて少し休、暮に近くして潤井戸讃岐屋に宿る。
○天保五年(一八三四)六月一四日(上之郷より行徳に向ふ途上)
鼠坂を登りて
寒きとき火にあたるより暑き時風に吹るる心地涼しき
○同二一日(行徳よりの帰途、六地蔵・長富鴇谷に至る)
鴇谷滝の不動尊参詣
岩川の滝の上なる不動尊寂漠として堂守もなし
○天保六年(一八三五)七月二日(智順公と同伴)
鼠坂を登りて
鼠坂くらき洞穴出て見れば地蔵から来た心地こそすれ
○(行徳からの帰途に)
土用晴、犬成の原にて始て富士を望む。
白妙の裏を見せるや夏の不二
○天保九年(一八三八)七月十五日(今暁江戸発足)
皿木の入口にて潤井戸の馬を継ぎかへけるに甚乗りにくき馬なり。
乗りにくき馬も辛抱して乗れば後には少しこころよきなり
皿木の原にて
秋の野やこれは何草何の花
○文政六年(一八三五)七月廿三日(笠森観音御開帳。出陳霊宝多数を拝観した中に)
慈光坊箱王丸守護子育地蔵 徳増村 円覚寺
鼠坂を登りて
寒きとき火にあたるより暑き時風に吹るる心地涼しき
○同二一日(行徳よりの帰途、六地蔵・長富鴇谷に至る)
鴇谷滝の不動尊参詣
岩川の滝の上なる不動尊寂漠として堂守もなし
○天保六年(一八三五)七月二日(智順公と同伴)
鼠坂を登りて
鼠坂くらき洞穴出て見れば地蔵から来た心地こそすれ
○(行徳からの帰途に)
土用晴、犬成の原にて始て富士を望む。
白妙の裏を見せるや夏の不二
○天保九年(一八三八)七月十五日(今暁江戸発足)
皿木の入口にて潤井戸の馬を継ぎかへけるに甚乗りにくき馬なり。
乗りにくき馬も辛抱して乗れば後には少しこころよきなり
皿木の原にて
秋の野やこれは何草何の花
○文政六年(一八三五)七月廿三日(笠森観音御開帳。出陳霊宝多数を拝観した中に)
慈光坊箱王丸守護子育地蔵 徳増村 円覚寺