ともし火は壁上の詩歌を照して雨戸くる音も絶えたるころ、家居まばらなる隣近所は静まりかへりて時々打ち笑ふ声かすかに聞ゆ。
何とは無く思ひに沈みたる眼を開けば柱に懸けし古蓑に思はず六年の昔ぞ偲ばれける。千葉より小湊に出でんと大多喜のほとりに春雨に逢ひて宿とらんも面白からず、さりとて菅笠一蓑には凌ぎかねて路の辺の小店にて求めたる此蓑、肩にうちかけたる時始めて行脚のたましひを入れて
春雨のわれ蓑著たり笠著たり
何とは無く思ひに沈みたる眼を開けば柱に懸けし古蓑に思はず六年の昔ぞ偲ばれける。千葉より小湊に出でんと大多喜のほとりに春雨に逢ひて宿とらんも面白からず、さりとて菅笠一蓑には凌ぎかねて路の辺の小店にて求めたる此蓑、肩にうちかけたる時始めて行脚のたましひを入れて
春雨のわれ蓑著たり笠著たり
と記している。なおこの自筆本は研医会図書館に現蔵されており、この原本の表紙には「浮世女之助」第一枚目には「偸花児」と署名があり、師走浪人・平凸凹・河東静渓に回覧され、おのおの評語の記入がある。この平凸凹というのは夏目漱石のことで、この中に「西鶴の文は読むべく摸すべからず、誦すべく学ぶべからず」とのべ、さらに「他日君が真面目に筆を振って紙に対するときは、何卒僕の忠告を容れ給はんことを願う。漢文日記まことに面白し」(下略)と評していることは、後日、子規が近世の文体をまったく一新した写生文を創唱したことと思合せて興味ある指摘である。この自筆稿本については木村三四吾氏の「子規の房総旅行『かくれみの』草稿」(天理図書館報「ビブリア」三七号・昭和四二年一〇月刊)がくわしく述べている。なお次の引用及び前掲の写真は講談社版『子規全集』第一三巻に拠った。
この旅行に使用した簔を子規の歿後,その病室で母の八重が手にしているところ
隠簔日記
日若(コト)ニ稽(カンガ)フルニ二我病勢ヲ一。曰。脳痛悶々。文思不安。魂馳四表。格于房総。明治二十四年辛卯春王三月二十五日出舎。市川獲莎笠。告天子迎于郊。〓蝶為嚮導。詣船橋神社。潮侵華表。騎痩馬。山茶紅桃屡犯顔。就伝舎。拒而不納。投手榊屋。此日始見菜公麦伯。
(中略)
二十七日。発馬渡駅。入于篁。伐竹為杖。非礼也。達千葉街。納影于枯桐之匣中。殺鶏子。炙〓公。病乃〓。拾団扇。過潤井戸。路在岡上。海水如絲。木枕撃頭。不果如華胥。
二十八日。発長柄山。菜畦阿屎。冷露侵尻。女子負薪。憩于洞穴。屋制稍異。与仏舎似。梁〓之端塗青粉。雨師来侵。蓑子防之。歌曰緑兮蓑兮。緑蓑黄笠。心之楽矣。曷維其乏。宿大多喜。雨軍猖獗。風伯大援之。鮮膾一盂。濁醪一〓而待。睡魔竟不到。賦詩曰。耿耿不寐。如レ有二隠憂一。微(アラズ)三我無二酒。以敖以遊(アソビ)一。憂心悄悄。慍于群小。覯レ閔既多。受侮不少。静二言(ココ)ニ思レ之。寤辟(サメテムネウツコト)有レ〓。雨師以豊隆雲師而退。半夜月子陣于天頂
かくれみの句集
二十七日
桃さくや脚半すげ笠竹の杖
我かほに雲雀落つるや草枕
ちご一人羊なぶるや桃の花
知らぬ名の草花つむや足の豆
おのが写真に題す
我影や広重流の道中画
寒川にて
遠浅や雲までつづく汐干狩
右の句鳥酔子の「天の際にちらはふ人や汐干狩」と暗合す)
草刈の籠をもれけり花菫
つむもをしつまぬもをしや春の草
おさなき時の思ひだされて
これつみて誰に送らん春の草
はれきった空や雲雀の声青し
かけろふや南無とかいたる笠の上
陽炎はなひかぬものか春の風
たんほゝや是も名のある花の内
にくらしきものの愛らし木瓜の花
恋猫の留守あづかるや桃の花
よく見ればたった一羽の雲雀哉
佐保姫のもてなしぶりやひとり旅
我身までういたようなる霞哉
樺太をさかひかけふの朝かすみ
春風や順礼でなく用でなく
二十八日
白桃の花やこぼるゝ朝の露
花程の雫こほすや菫草
野糞二首
菜の花のかをりめてたき野糞哉
菜の花の露ひいやりと尻をうつ
白き山吹の一枝をかざして
山路きて山吹白く顔黒し
ほうけたるまゝなりつくし蕗の薹
親子らしならぶつくしの長短
つみもせずすわって見るやつく/゛\し
手のとゞくだけは短しつく/゛\し
花そとも見えぬ衰れや蕗の薹
ききなれぬ鳥やきこりのなまりこゑ
菜の花の中に路あり一軒家
馬の鈴近くて遠き山路かな
(一作。馬の鈴近く聞えて九折)
佐保姫に笑はれてこそたびの顔
肩の荷をかへるや花の折り勝手
八犬伝の古蹟を尋ぬる道に雨あひて
蓑笠や馬琴もしらぬ山の景
米点の画にありさうや蓑の人
ぬるゝともいざこゝでねん菫草
雨もよしけつく浮世をかくれ蓑
堀割や藪鶯を両の耳
日若(コト)ニ稽(カンガ)フルニ二我病勢ヲ一。曰。脳痛悶々。文思不安。魂馳四表。格于房総。明治二十四年辛卯春王三月二十五日出舎。市川獲莎笠。告天子迎于郊。〓蝶為嚮導。詣船橋神社。潮侵華表。騎痩馬。山茶紅桃屡犯顔。就伝舎。拒而不納。投手榊屋。此日始見菜公麦伯。
(中略)
二十七日。発馬渡駅。入于篁。伐竹為杖。非礼也。達千葉街。納影于枯桐之匣中。殺鶏子。炙〓公。病乃〓。拾団扇。過潤井戸。路在岡上。海水如絲。木枕撃頭。不果如華胥。
二十八日。発長柄山。菜畦阿屎。冷露侵尻。女子負薪。憩于洞穴。屋制稍異。与仏舎似。梁〓之端塗青粉。雨師来侵。蓑子防之。歌曰緑兮蓑兮。緑蓑黄笠。心之楽矣。曷維其乏。宿大多喜。雨軍猖獗。風伯大援之。鮮膾一盂。濁醪一〓而待。睡魔竟不到。賦詩曰。耿耿不寐。如レ有二隠憂一。微(アラズ)三我無二酒。以敖以遊(アソビ)一。憂心悄悄。慍于群小。覯レ閔既多。受侮不少。静二言(ココ)ニ思レ之。寤辟(サメテムネウツコト)有レ〓。雨師以豊隆雲師而退。半夜月子陣于天頂
かくれみの句集
二十七日
桃さくや脚半すげ笠竹の杖
我かほに雲雀落つるや草枕
ちご一人羊なぶるや桃の花
知らぬ名の草花つむや足の豆
おのが写真に題す
我影や広重流の道中画
寒川にて
遠浅や雲までつづく汐干狩
右の句鳥酔子の「天の際にちらはふ人や汐干狩」と暗合す)
草刈の籠をもれけり花菫
つむもをしつまぬもをしや春の草
おさなき時の思ひだされて
これつみて誰に送らん春の草
はれきった空や雲雀の声青し
かけろふや南無とかいたる笠の上
陽炎はなひかぬものか春の風
たんほゝや是も名のある花の内
にくらしきものの愛らし木瓜の花
恋猫の留守あづかるや桃の花
よく見ればたった一羽の雲雀哉
佐保姫のもてなしぶりやひとり旅
我身までういたようなる霞哉
樺太をさかひかけふの朝かすみ
春風や順礼でなく用でなく
二十八日
白桃の花やこぼるゝ朝の露
花程の雫こほすや菫草
野糞二首
菜の花のかをりめてたき野糞哉
菜の花の露ひいやりと尻をうつ
白き山吹の一枝をかざして
山路きて山吹白く顔黒し
ほうけたるまゝなりつくし蕗の薹
親子らしならぶつくしの長短
つみもせずすわって見るやつく/゛\し
手のとゞくだけは短しつく/゛\し
花そとも見えぬ衰れや蕗の薹
ききなれぬ鳥やきこりのなまりこゑ
菜の花の中に路あり一軒家
馬の鈴近くて遠き山路かな
(一作。馬の鈴近く聞えて九折)
佐保姫に笑はれてこそたびの顔
肩の荷をかへるや花の折り勝手
八犬伝の古蹟を尋ぬる道に雨あひて
蓑笠や馬琴もしらぬ山の景
米点の画にありさうや蓑の人
ぬるゝともいざこゝでねん菫草
雨もよしけつく浮世をかくれ蓑
堀割や藪鶯を両の耳
なおこの時に子規の歩いた長柄山より長南・大多喜への道は難工事のはて、数年前に完成したばかりの新しい県道を通ったものと推測される。